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【45/47体制】 †
1970〜1980年代、日本政府が国内航空会社の事業範囲について定めた産業保護政策の通称。
昭和45年(1970年)に閣議で了解され、昭和47年(1972年)に運輸大臣(現:国土交通大臣)からの通達により実施された。
航空各社に対する強い拘束力から「航空憲法」とも揶揄された。
1965年、運輸省の航空審議会は運輸大臣から「わが国定期航空運送事業のあり方について」という諮問を受ける。
これに対する答申は「国内線を運航する企業の経営基盤強化」「定期航空運送事業を営む事業者は国際線1社・国内線2社が望ましい」との主旨であった。
これを受け、当時四社(「日本航空」「全日本空輸」「東亜航空*1」「日本国内航空*2」)あった航空会社は合併に向けて動き出した。
政府は日本航空が日本国内航空を、全日本空輸が東亜航空を合併する事を目論んでいた。
しかし、政府の意向に反して日本国内航空と東亜航空が合併を模索。
これを受け、1970年に運輸政策審議会が「今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針」についての答申を提出。
同年11月に次のような閣議了解が出された。
- 需要の多いローカル線は、原則として2社で運航する。
- 国際定期路線は、原則としてフラッグキャリアである日本航空が一元的に運営する。
ただし、近距離路線については日本航空・全日本空輸の提携のもと、余裕のある機材を活用して行う。 - 貨物専門航空については、有効な方法を今後早急に検討する*3。
そして、1972年に出された運輸大臣通達により、以下のように事業範囲が割り振られた。
- 日本航空
- 国際線及び国内幹線*4の運航。国際航空貨物輸送対策を行う。
- 全日本空輸
- 国内幹線・ローカル線を運航。近距離国際チャーター便の充実を図る。
- 東亜国内航空(後の日本エアシステム)
- 主に国内ローカル線を運航。
以後、これを軸として国内航空各社の事業分野が確定した。
しかし1970年代末、アメリカで路線参入の自由化・競争による運賃の値下げなど航空業界の規制緩和(ディレギュレーション)が実現。
1985年には日本も45/47体制を抜本的に見直し、国際競争力の強化を念頭に企業間競争の自由化へと方針転換することとした。
これによって国際線への参入制限は解除されると共に、フラッグキャリア的制度の廃止により日本航空も完全民営化*5。
45/47体制は終焉を迎えた。
*1 伊丹空港を拠点に、西日本に路線網を持っていた。本社は広島にあった。
*2 羽田空港を拠点に、幹線と準幹線・ローカル線を運航していた。
*3 その後、1978年に日本貨物航空が創業したが、同社がこの方針の枠外(商船会社や陸運会社の出資が主であった)で開業したことから当初、路線の開設を認められず、1985年になってようやく開設が認められた。
*4 羽田〜伊丹・千歳・福岡の各路線。
なお、当時成田空港・中部国際空港・関西国際空港・新千歳空港は未開港で、那覇は同年5月にアメリカから返還されたばかりだった。
*5 それまで日本航空は「日本航空株式会社法」という法律による半官半民の特殊法人とされていたが、1987年3月31日に同法が廃止され、完全民営化された。