Last-modified: 2016-12-07 (水) 12:41:06 (374d)

【東郷平八郎】(とうごうへいはちろう)

明治中期に活躍した旧日本海軍の提督。(1848年生〜1934年没)
生涯最終の階級・位階・勲等・功級・爵位は、元帥海軍大将・従一位・大勲位功一級・侯爵。

薩摩国鹿児島郡加治屋町(現:鹿児島市)出身。
少年時代に薩摩藩士として薩英戦争に参加し、以来戊辰戦争で薩摩軍艦に乗り込んでさまざまな海戦に参加。五稜郭の戦いでは五稜郭への艦砲射撃も行った。

明治維新後、新政府海軍に士官として入隊。明治4年(1871年)から11年(1878年)までイギリスに留学、帰国後の明治12年(1879年)12月に海軍少佐に昇格した。
日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長として参戦、戦争後一時期病床に臥すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官、明治34年には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官を歴任した。

そして日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命され、明治37年(1904年)2月の日露戦争では戦艦三笠」に座乗、ロシア太平洋艦隊の根拠地・旅順への攻撃や黄海海戦をはじめとする海軍作戦全般を指揮*1、同年6月に海軍大将に昇進する。

翌明治38年(1905年)5月、日本海海戦においてヨーロッパから極東に回航してきた第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を迎撃。
東郷は「丁字戦法」や「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を用いてバルチック艦隊を撃破し、日本海軍を勝利に導いた。
この海戦での勝利は世界の注目を集め「アドミラル・トーゴー」としてその名は広く知られるようになった。
また同盟国だったイギリスのジャーナリストは「東洋のネルソン*2」とイギリスの国民的英雄に比して称えている。

その後、軍令部長、東宮御学問所総裁などの要職を歴任。
1913年(大正2年)には元帥府に列せられ、以後、最先任将校*3として海軍に大きな影響をもたらした*4
昭和9年(1934年)5月、膀胱ガンにより満86歳で逝去。逝去直前に侯爵となり、国葬で葬られた。


*1 第二次旅順港閉塞作戦後、連合艦隊が敷設した機雷にロシア太平洋艦隊司令長官、ステパン・マカロフ中将が乗った戦艦が触雷し、戦死させるという大戦果を挙げる。
*2 ホレーショ・ネルソン(1758〜1805)アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍した英海軍提督。
*3 元帥府に列せられたことで終身現役となり、また、東郷の同級及び先任の士官は全て予備役に退いていたため。
  没後、大東亜戦争終戦による軍の解体まで、その地位は伏見宮博恭王に移った。

*4 そのため、昭和初期にロンドン海軍軍縮条約の是非を巡って海軍の上級将校が「条約派」と「艦隊派」に分かれた際、艦隊派によって自派のシンボルとして担ぎ出されたりもした。

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