*&ruby(ふがく){【富嶽】}; [#j5b5e421]
中島G10N「富嶽」。~
1940年代の[[太平洋戦争]]中、日本の[[航空機]]メーカー「中島飛行機製作所(現在の富士重工の前身)」が構想した超大型[[爆撃機]]。~
名称は富士山の別名から取られている。~
また、中島飛行機の創始者・&ruby(なかじまちくへい){中島知久平};(1884年生〜1949年没)が本機の開発を政府に献策するため作成した「必勝防空計画」に記載されていた名称から「Z飛行機」とも呼ばれていた。~

**中島知久平と中島飛行機・「必勝防空計画」 [#df1e0d03]
本機を構想した「中島飛行機製作所」を創設した中島知久平は、元海軍機関大尉という経歴を持つ人物であったが、青年士官時代の1911年、日本で初めて飛んだ飛行船「イ式飛行船」を操縦したことを契機に航空の世界へ関わりを持つようになった。~
その後、[[第一次世界大戦]]時に「航空事情視察」を目的としてヨーロッパへ出張した際、現地の進んだ航空事情を目の当たりにしたことで~
「これからは航空機が戦争の勝敗を左右する」~
という思想(後の[[航空主兵主義]])を持つようになり、帰国後、「飛行機報国」の信念から軍を退官、兄弟で「中島飛行機製作所」という会社を立ち上げたのである。~
>こうした経緯から、中島飛行機は純然たる[[軍用機]]専業メーカーとして営業していた((納入実績としては陸軍機が強く、海軍機で有名なのは[[月光]]・[[九七式艦上攻撃機]]程度であった。))ため、終戦後、[[GHQ]]の指令により徹底的に解体されている。

太平洋戦争の開戦当時、中島は会社の経営を実弟に譲って政界入りしていた((つまり中島は、生涯で軍人・政治家・技術者(海軍時代も機関科という技術色の強い兵科に属していた)・実業家という4つの職を経験したことになる))が、アメリカが(後に[[B-29]]となる)長距離重爆撃機の開発を進めているとの情報を受けて政府・軍部に提出したのが「必勝防空計画」である。~
これは~
「最大20トンの[[爆弾]]を搭載して成層圏を飛行できる超大型爆撃機を大量生産し、これを以ってアメリカ本土の大都市や工業地帯に対する[[戦略爆撃]]を敢行、国民の[[士気]]を奪って早期講和へ持ち込む」~
ことを骨子としていたが、それでも降伏しなかった場合には、爆撃機型の他に艦隊攻撃用の「Z[[雷撃機]]」(大型の[[航空魚雷]]を多数搭載)や地上襲撃用の「[[Z掃射機]]」(多数の[[機関銃]]または[[機関砲]]を下向きに搭載する[[ガンシップ]])により艦隊や航空基地を破壊し、更に人員・資材輸送用の「Z[[輸送機]]」(兵員200名などを搭載可能)によってアメリカ本土へ地上部隊を送り込んで占領することも考えられていた。

**「Z飛行機」から「富嶽」へ [#a2389e49]
こうした経緯で生まれた「Z飛行機」構想は、当時の日本の技術力では到底実現困難なスペックの機体を作ろうというものであり、1942年に政府・軍部へ献策された当時はほぼ無視されていたという。~
~
1944年になり、当初の現実離れしすぎていたスペック((特に中島が拘った「5000馬力エンジン」が、当時の技術では冷却不可能で到底実現できなかったという))を大幅に修正し、陸海軍共同開発機として計画が始動したが、陸軍と海軍の要求性能の違いなどの要因から計画は進捗せず、また、その頃には[[アメリカ軍]]を中心とした[[連合国]]軍側が圧倒的な海上・[[航空優勢]]を確保していたことから、[[戦闘機]]の量産が最優先されるようになったため、結局1機も実機が作られることなく計画は挫折した。~
~
余談だが、本機への搭載を予定していたとされるエンジンが、後年、[[東京国際空港]]の拡張工事中に偶然発見され、現在は[[成田国際空港>成田空港]]に隣接する航空科学博物館に展示されている。

**スペックデータ(当初の想定) [#bf775613]
-全長:46.00m
-全幅:63.00m
-全高:8.80m
-主翼面積:330.00
-[[エンジン]]:中島「ハ−54」空冷4列星型36気筒[[レシプロエンジン]](6000馬力)×6
-自重:42トン
-作戦重量:122トン
-最大速力:780km/h(高度10000m)
-実用上昇限度:15000m以上
-航続距離:19400km以上
-搭載兵装:(爆撃機型)20mm[[機関砲]]×4、爆弾20トン~
      ([[掃射機>Z掃射機]]型)7.7mm機関銃40挺~
      ([[雷撃機]]型)1トン[[航空魚雷]]20発

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