【湾岸戦争】(わんがんせんそう)

湾岸戦争 概要
期間1990年8月2日(または1991年1月16日)〜1991年2月28日
場所イラク、クウェート、サウジアラビア
結果多国籍軍の勝利
交戦勢力クウェート、アメリカ、サウジアラビア、イギリス、エジプト、
シリア、アラブ首長国連邦、フランス、ベルギー、モロッコ、
カタール、オマーン、パキスタン、カナダ、アルゼンチン、
スペイン、イタリア、バングラデシュ他29カ国
イラク
戦力多国籍軍側959,600人
イラク側545,000人
損害多国籍軍側死者240〜392人 負傷者776人
イラク側死者20,000〜35,000人

Gulf war
1991年、アメリカを中心とする多国籍軍とイラク軍の間に起こった戦争。

開戦に至るまで

この戦争は1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻したことを契機とする。
同年8月6日、国際連合はこれに対応して対イラク経済制裁を開始。
翌7日には、アメリカ合衆国がサウジアラビア防衛作戦「デザートシールド」を発動し、現地に派兵。
その後、英仏伊加や幾つかのアラブ諸国も参加した。

その年の11月29日、国際連合安全保障理事会国際連合安全保障理事会決議678を決議。
決議内容を概略すればおおむね以下の通り。

  1. イラク政府に対し、以下の条件*1の履行を要求する。
    1. イラクによるクウェート侵攻は国際平和と安全に対する違反行為であると認定する。
    2. イラク軍部隊は即時に無条件でクウェート領内より撤退する。
    3. イラク・クウェート両国は事態を打開するために真摯な協議を行う。
  2. 1991年1月15日当日までに1. が履行されない場合に発動。
    クウェートに協力する全ての加盟国に、地域の国際平和と安定を回復するために必要な措置全てを認める*2
  3. 全ての加盟国に対し、2. の遂行に必要とされる適切な支援を求める。
  4. 関係諸国が上記2. と3. に基づく行動を取る場合、国連安全保障理事会への定期報告を求める。

翌日11月30日、イラク政府は国連の要求を拒否し、徹底抗戦を表明。
1991年1月16日、最後通牒の期限切れになる時点でもイラク軍は駐留し続けた。

翌17日、多国籍軍が作戦「デザートストーム」を発動。
イラク・クウェート領内に対する空爆が開始され、戦争が始まった。

戦闘の経緯

開戦初日から、多国籍軍は過去に例が無い規模の攻勢対航空作戦を実施。
AWACS?電子戦機を大量投入した多国籍軍に対し、イラク軍は電子戦で惨敗。
当時、世界有数の能力を見込まれていたイラク軍の防空網「カリ」は、開戦3日にしてほぼ完全に機能を停止した*3

航空優勢を失ってほどなく、多国籍軍の空爆がイラク陸軍・イラク本土内軍事目標に殺到。
イラク上空は誘導爆弾巡航ミサイルステルスなど、当時最新鋭の航空軍事技術の見本市と化した。

その破壊の様相を記録したFLIRの映像は世界中の家庭に配信された。
時代を塗り替えた新たな戦争の様相は、「ピンポイント爆撃」「精密爆撃」「任天堂戦争」などとして軍事史に鮮烈な足跡を残している。

なお、兵站に潤沢な余裕があったわけでもなく、比較的旧型の通常爆弾戦略爆撃も行われている。
また、戦術偵察機の不足による混乱など、当時の軍事ドクトリンの欠陥も露呈する事となった。

一連の航空戦に引き続き、多国籍軍は2月24日午前4時に地上侵攻作戦「デザートセイバー」を発動。
アメリカ海兵隊が先鋒となり、クウェート国境の「サダム・フセインライン」に突撃した。
当初激しい反撃が懸念されたが、空爆士気の崩壊したイラク軍は次々と投降して突破に成功。

一方、第二波の主力部隊はサダム・フセインラインを迂回し、イラク軍の側面への包囲を敢行。
戦車だけでも多国籍軍約1600両・イラク軍約2600両が激突する史上最大最後の機甲戦が展開された。
そしてこの機甲戦でもイラク軍は惨敗に終わり、多国籍軍の損失はほぼ味方からの誤射のみ、という一方的な戦闘となった。

この機甲戦におけるイラクの敗因は大きく分けて三つ。
一つに、イラク側の砲兵が火砲約1800門であったのに対し、多国籍軍が約5万両の支援車両を投入した事。
第二に、多国籍軍の第三世代主力戦車に対し、イラクのT-72が一世代前の戦車であった事*4
最後に、広い砂漠で空爆を受けながらの防御、という最悪の状況で会敵した事である。
根本原因は航空優勢の喪失で、これさえなければ戦車の物量差で多国籍軍を押し潰せていた可能性も高い。

ここに至ってイラク政府は敗北を悟り、2月27日にイラクの国連大使は国連決議の受け入れを表明。
翌28日午前8時をもって停戦となり、地上戦は100時間あまりで終了した。

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Photo: USAF

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日本への影響

日本はアメリカと安全保障条約を結び、またクウェートに石油資源の多くを依存しており、決して局外者ではなかった。
にも関わらず、憲法上の理由から参戦を拒否。在外邦人の保護・救出すらほとんど行わなかった*5
総額90億ドルもの戦費支援を行ったが、実際の戦争には全く関与せず、その姿勢が国際社会から批判を浴びた。

ちょうどこの頃、日本は1980年代後半の株・土地バブルによる超好景気の影響下にあった。
増大する対日貿易赤字が各国で問題視されていたことも影響していただろう。

この批判に対する外交的パフォーマンスとして、海上自衛隊の掃海部隊*6が停戦後のイラクに派遣された。
派遣に至るまでの経緯はともかく、機雷除去の手腕は高い評価を受けた。

この経験を経て日本政府は軍事政策を転換。
翌1992年には「国際平和協力法」を制定し、自衛隊のPKF活動派遣が解禁された。


*1 国際連合安全保障理事会決議660に準拠。
*2 事実上「イラクに対する宣戦布告を許可する」の意。
*3 とはいえ、SAMAAAMiG-25戦闘機によって合計33機の多国籍軍機を撃墜している。
*4 しかも当時のイラクが保有するT-72は旧ソ連製・中国製で、輸出仕様の粗製濫造品だった。
  とはいえ、ソ連純正のT-72でもM1エイブラムスチャレンジャーに対抗できたかは疑わしい。

*5 なお、当時の自衛隊は海外での行動を想定しておらず、また、日本本土〜クウェートまで直接到達できる輸送手段もなかった。
*6 旗艦は掃海母艦「はやせ(MST-462)」、以下はつしま型掃海艇4隻・とわだ型補給艦1隻からなる艦隊

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