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【湾岸戦争】 †
the Gulfwar
1991年、アメリカを中心とする多国籍軍とイラク軍の間に起こった戦争。
開戦の引き金は1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻したことに始まる。
4日後には国連が対イラク経済制裁を開始、その翌日にはアメリカがサウジアラビア防衛を目的とした「オペレーション デザートシールド(砂漠の盾作戦)」を発動し軍を派遣。その後、英仏伊加や幾つかのアラブ諸国も参加した。
そしてその年の11月29日、国連安全保障理事会の外相級公式協議でイラクに対し「1991年1月15日までのクウェート無条件撤退」を最後通告、従わなければ加盟国の武力行使を容認と決議した。
しかし翌日11月30日、イラクは徹底抗戦を表明してこれに対抗。
1991年1月16日に最後通告の期限が切れ、翌17日、多国籍軍が「オペレーション デザートストーム(砂漠の嵐作戦)」を発動してイラク・クウェート領内を爆撃、開戦した。
多国籍軍は、開戦初日から過去に例が無い規模の航空作戦を実施する。
最初の目標は航空優勢の確保であった。
その効果は凄まじく、多数のSAMと迎撃戦闘機を配備し、世界でも有数の能力を持つといわれたイラクの防空システム「カリ」は、開戦から3日で能力が1/10に低下し、機能停止した。
イラクの防空部隊はAWACSや電子戦機による高度な運用を行っていた多国籍軍に全く歯が立たなかったのである。
防空網制圧後は、地上軍およびイラク本土の戦略目標にその刃が向けられた。その中でも誘導爆弾を使用するF-117やF-111、F-15E、トーネード、バッカニアは高い精度で攻撃を成功させていった。
次々と建造物や車両が破壊されていくFLIRの映像は世界中の家庭に配信され、「ピンポイント爆撃」「精密爆撃」や「Nintendo War(ニンテンドーウォー/任天堂戦争/意訳:テレビゲーム的な戦争)」という言葉を生んだ(なおLANTIRNなどのレーザー目標指示器の不足によりF-16、F/A-18、ジャギュアなどは殆どを誘導爆弾を使用しなかった)。
さらにF-117は損害を受ける事無く防空網の厚いバグダッドの目標を破壊するなど、ステルス機の能力を世に知らしめた。
また、巡航ミサイルも使用され、アメリカ海軍はUGM/RGM-109「トマホーク」を288基、アメリカ空軍はB-52からAGM-86C「CALCM」35基を発射した。
このように、湾岸戦争はそれまでの航空戦略・戦術に対する根本的な変革が際立った戦争であったが、その一方で、通常爆弾を搭載したB-52による戦略爆撃が行われたように、旧来の航空戦術も採り入れられていた。
また、戦術偵察機の不足により戦果確認が不十分に終わるといった新たな航空戦の欠点も浮かび上がることとなった。
一連の航空戦に引き続き、2月24日午前4時に地上戦「オペレーション デザートセイバー(砂漠の剣作戦)」が開始。
まず、先鋒となるアメリカ海兵隊がクェート国境の「サダム・フセインライン」に攻撃を開始。
当初激しい反撃が懸念されたが、先の航空戦で殆ど戦意を失ったイラク軍は次々と投降、初期の突破作戦は成功する。
一方、アメリカ陸軍を中心とする多国籍軍地上部隊の主力はその防衛ラインを迂回、イラク軍側面を突く作戦を敢行する。
アメリカ軍の「M1エイブラムス」、イギリス軍の「チャレンジャー」を中心とする戦車1600両、支援車両5万両の大部隊が攻撃を行い、数の上では劣勢であったが、(イラク軍の戦車は旧ソ連製を中心とする約2600両、火砲約1800門)装備と練度に勝る多国籍軍がイラク軍を圧倒した。
この一連の地上戦でイラク軍は莫大な車両を失ったが、多国籍軍の被害は実に数十両*1に過ぎず、一方的な戦闘となった。
「高性能」を謳われ、ソ連の外貨獲得の一翼を担っていた旧ソ連製T-72戦車が、西側戦車に完膚無きまでに叩きのめされ大幅に輸出が減少したことも有名である。*2
また、兵力の絶対数が少ない多国籍軍がイラク軍を空と陸地で完膚なきまでに叩き潰したことで
「現代戦では兵士数の多寡が必ずしも戦争の勝敗を左右するものではない」
ということが証明され、それによって、旧来の「国家総力戦」思想に立脚した「徴兵制」の必要性・必然性が薄まり、各国で軍隊の完全志願制への移行と人員構成のスリム化が進められることにもなった。
2月27日にイラクの国連大使は国連決議の受け入れを表明、翌28日午前8時に停戦となり、地上戦は100時間あまりで終了した。
Photo: USAF
日本への影響 †
前述の通り欧米諸国、そして一部のアラブ国家も参戦したこの戦争であるが、我が国は当初、(アメリカと「日米安全保障条約」を結んでおり、また、この地域に国内で消費する石油資源の多くを依存しているなど、関連は決して浅くなかったにもかかわらず)憲法との関連から局外者の立場にあった。
そのため、この戦争のきっかけとなったイラク軍のクウェート侵攻の際、クウェートに在留していた邦人の保護・救出に有効な手をなかなか打てず、また、イラクへの武力行使発動の際にも兵力を拠出せず、戦費支援(総額90億ドル)のみにとどめていたため、国際社会から批判を浴びることになってしまった。*3
このため、武力侵攻終結後にイラク軍が沿岸防衛のために散布した機雷を除去するため、掃海母艦「はやせ(MST-462)」を旗艦とする海上自衛隊の掃海部隊(「はやせ」以下掃海艇4隻・補給艦1隻)を派遣した。
旧海軍以来連綿と受け継がれてきた海自の掃海技術*4は、参加諸国の間でも高く評価され、後に自衛隊が海外活動を本格的に行うきっかけともなった。*5
*1 しかも大部分が友軍からの誤射・誤爆だった。
*2 イラク陸軍の装備していた車輌の大半はソビエト連邦(ロシア)及び中国からの輸出品で、輸出用にスペックダウンされたものであった。
*3 ちょうどこの頃、日本は1980年代後半からの株・土地バブルによる超好景気の影響下にあり、増大する貿易黒字が国際社会で問題視されていたことも影響していた。
*4 第二次世界大戦終戦後も、海軍の機雷掃海部隊だけは活動が許されており、技術の断絶がなかった。
*5 その後、1993年にはカンボディアでのPKF活動に陸上自衛隊が初めて参加した。