【赤城】(あかぎ)

太平洋戦争で活躍した日本海軍の航空母艦

本艦は八八艦隊計画の巡洋戦艦として1920年に起工されたが、その後ワシントン軍縮条約によって他の艦船が建造を中止され解体される中で、航空母艦への改造を受け竣工した。
本来は同型艦の「天城」と一緒に改装される*1はずだったが、天城が関東大震災において打撃を受けた*2ため、赤城が改装される事となった。

当時は海上航空兵力の運用方法が確立されていなかったため、さまざまな実験的要素を含んだ艦に仕上がっていた。
その中でも特徴的なのが、英国で先に就役していた空母「フューリアス」を模範に導入された三段式の飛行甲板で、最下層の格納庫とつながった艦首部分には全長約57mの大型機発進用甲板を、その上には15mの小型機発進用甲板を装備し、最上部は艦尾から伸びた全通式190mの発着艦用甲板になる予定だった(中段は艦橋の拡張や主砲塔によって使用できなくなっている。このため、三段ではなく二段甲板と言う場合もあるが、三段とする方が一般的)。
この三段式甲板は、下の二層の甲板から搭載機を発進させつつ、帰還してきた機を最上部の甲板で着艦させるという考えに基づいていたが、実際にはうまく運用することができなかった。
そのため、1935年から1938年にかけて大規模な改装工事を受け、飛行甲板を最上部の一段のみにし、それを艦首まで延長することで約250mの大型飛行甲板を持つことになった。これは艦載機の大型化にも十分対応できるものだった。
この大型甲板には左舷中央に小型の艦橋も設置され、廃止された下部飛行甲板の部分には格納庫も増設されたため、搭載機は最大で91機(常用66機・予備25機)にもおよび、これは日本空母では最大である。
また、この時の改装では機関も大幅な変更がされ、一連の改装で排水量が増大しているにもかかわらず31ktの高速を出すことができた。

こうして近代的な航空母艦として生まれ変わった赤城は、加賀と並び世界的にも最大級の航空母艦になっており、まもなく第一航空戦隊の旗艦になった。
特徴としては左舷に設置された艦橋で、旧日本海軍では赤城と飛龍だけが左舷に艦橋を設置している。左舷に艦橋を設置したのは右舷下向きに設置された煙突との重量バランスをとるための措置だったが、パイロットからは不評だった。そのため、後に飛龍の設計を流用して戦時量産型として開発された「雲龍」級では、右舷に艦橋が移されている。

太平洋戦争の開戦後は南雲忠一中将の指揮下、真珠湾攻撃やインド洋海戦などで各地を転戦し、艦載機の性能や搭乗員の練度も相まって優れた戦績を残した。
しかし、1942年6月のミッドウェイ海戦に参加した際に、SBD「ドーントレス」の急降下爆撃により1000lb爆弾3発を被弾して大火災に陥り、手がつけられなくなったため、味方駆逐艦の魚雷で処分された。

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赤城
Photo: U.S.Navy


*1 アメリカ海軍でも同様に巡洋戦艦だった「レキシントン」「サラトガ」が空母に改装されている
*2 同艦は横須賀工廠で改装工事を受けていたが、地震で船台からずり落ちて大破。損傷がひどいためそのまま廃艦となった

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