【真珠湾攻撃】(しんじゅわんこうげき)

太平洋戦争開戦の引き金となった、1941年(昭和16年)12月8日(現地時間7日日曜日早朝)日本軍によるハワイ諸島オアフ島真珠湾アメリカ海軍基地を中心とするオアフ島各基地へ仕掛けた攻撃。
特に真珠湾軍港に対する攻撃が目的であり、激しかったためこう呼ばれる。 作戦名は「ハワイ作戦」、戦闘後に日本が決定した当該戦闘の正式名称は「ハワイ海戦」。


作戦立案は山本五十六大将(当時連合艦隊司令長官)と源田実参謀と言われ、アメリカ海軍の大基地、真珠湾軍港に停泊する戦艦及び航空母艦を開戦とともに撃滅し、アメリカ国民の戦意を無くしたところで早期講和へ持ち込む算段だったと言われる。
まだ日本海軍の中に大艦巨砲主義が大きな勢力を持っており、さらに図上演習でも散々な結果だったため、当初は海軍内部で反対意見が強かったが、山本五十六の「この作戦が認められなければ、自分は司令長官を辞任する」という強い意志のため決行されることとなった。
決行に先立ち諜報員として吉川猛夫を送り込み湾内の状況を逐一報告させるとともに、国内では極秘とされる中で参加兵力の編成、搭乗員の猛訓練、遠浅の真珠湾にあわせた浅々度魚雷?の開発、詳しい作戦の立案等が行われた。
空母は当時の日本海軍の全正規空母である「赤城」「加賀」「蒼龍?」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」が参加し、その搭乗員は大ベテランにさらに鹿児島県錦江湾で猛訓練を積ませた最高の人員を組んだ、まさに日本海軍の総力に近い陣容だった。 要となる九七式艦上攻撃機の雷撃隊の隊長に村田重治少佐、水平爆撃隊隊長に淵田美津夫中佐(飛行隊総指揮官兼任)、九九式艦上爆撃機による急降下爆撃隊隊長に江草隆繁少佐、零式艦上戦闘機による征空隊隊長に板谷茂少佐が任命され、航空機の総勢は実に355機に及んだ。

そして11月26日に単冠湾に集結していた参加兵力は真珠湾に向けて出航。12月1日までに対米交渉がまとまれば引き返す予定だったがまとまらず、「ニイタカヤマノボレ1208」の電文によって機動部隊司令長官南雲忠一?中将に作戦決行が申し渡された。

日本時間12月8日午前1時45分、第一次攻撃隊183機が真珠湾に向けて出撃した。それとほぼ時を同じくして日本軍の特殊潜航艇5隻が湾内への突入を図ったが、駆逐艦に発見され、全てが沈没ないし座礁することとなり、乗組員10名中9名が戦死、1名が捕虜となった。航空隊は午前3時19分(現地時間7日午前7時49分)に全機突撃を意味するト連送を淵田機が送信し、さらに23分に「奇襲成功」を意味する「トラ・トラ・トラ」が送信された。
当日偶然にも空母が全艦出払っており、湾内にはいなかった為に攻撃は戦艦へと集中し、また各飛行場も徹底的にたたかれた。この時に送信された、"Pearl Harbor air raid. This is no drill"(真珠湾空襲。これは演習ではない。)はあまりにも有名である。
その後第二次攻撃隊が進入、流石に戦闘態勢を整えた米軍相手に多少の損害を出すこととなったが、止めを刺すかのように米軍に大損害を与えた。

先ず戦艦「オクラホマ?」が魚雷5本と800kg徹甲爆弾多数を被弾し大破転覆。続いて「ウェストバージニア」が左舷に魚雷6〜7本受け、さらに800kg爆弾2発命中、沈没した。
次にアリゾナ?魚雷1本を一番砲塔付近に受けた後、800kg爆弾4発を被弾、うち1発が前部弾薬庫まで貫通し爆発、轟沈した。これが「悲劇の戦艦」と現在まで語り継がれる所以である。
他「カリフォルニア」が魚雷3本と800kg爆弾1発、250kg爆弾至近弾4発を受け沈没。「テネシー?」が800kg爆弾2発(1発不発)と「アリゾナ?」の爆発に巻き込まれ中破。「メリーランド?」が800kg爆弾と250kg爆弾1発ずつ、至近弾多数を受けて中破擱座。「ペンシルバニア?」ドッグ内で250kg爆弾1発を受けて小破。「ネバダ?」は動き出したものの左舷への魚雷1発と250kg爆弾6発以上を受けた後、湾口をふさいで沈むのを恐れて座礁した。
他標的艦「ユタ」、敷設艦「オグララ」が沈没。軽巡洋艦「ヘレナ」「ローリー」「ホノルル」、駆逐艦「カッシン」「ショー」「ダウンズ」、工作艦「ベスタル」、水上機母艦?「カーチス」が損傷した。
航空機はフォード・ヒッカム・ホイラー・バーバス・カネオヘ・ベロース各飛行場合計して231機が損傷、うち完全喪失は188機、迎撃に上がって撃墜された数は17機と報告されている。なおこの時迎撃に離陸した主力はP-39P-40だったが殆ど零戦?の前に歯が立たなかったようだ。
アメリカ側人的損害は戦死2402名、戦傷1382名に上っている。逆に日本軍の損害は航空機29機、特殊潜航艇5隻、人的損害戦死64名とアメリカに比べ微々たる物だった。

この責任を取らされ当時の太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル?大将は辞任させられ、その名誉はつい最近まで挽回されていなかった。一方日本ではこの大勝利に大いに沸き、新聞・ラジオなどの報道を独占し、戦死した特殊潜航艇乗員は「九軍神」として祭られた。
ところが外務省の手違いから宣戦布告が攻撃を開始後となってしまい、この事実が「汚い奇襲」とアメリカ国民に受け取られ、戦意を喪失させるはずだったこの作戦は逆に結束を固め、戦意を向上させる結果となってしまった。


この事件は今でも、「ルーズベルト大統領はこの攻撃があることを知っていてあえて隠していたのではないか」「日本軍は燃料タンクやドッグを第三次攻撃で破壊すべきではなかったのか」等等、数々の研究がなされ、多数の本も出版され、また映画の主題にも度々上っている。


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