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【グレナダ侵攻】 †
戦争 | 冷戦 | |
年月日 | 1983年10月25日〜12月15日 | |
場所 | グレナダ | |
結果 | アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | アメリカ、アンディグア・バーフーダ、バルバドス、ドミニカ国、ジャマイカ、セントクリストファー・ネイビス、セントビンセント・グレナディーン、セントルシア | |
グレナダ、キューバ | ||
戦力 | アメリカ側 | 7,300名 |
グレナダ側 | キューバ、グレナダ両陣営合わせ2,222名 | |
損害 | アメリカ側 | 死者19名、負傷者116名 |
グレナダ側 | 死者93名(両陣営合計)、負傷者約1,000名 |
1983年、カリブ海に浮かぶ島国グレナダでクーデターが発生し、これによりアメリカ軍やカリブ海諸国連合軍が侵攻した事件。
発端 †
もとはイギリスの植民地だったグレナダは1974年に独立し、当時首相だったエリック・ゲーリーとその一族は外国資本と癒着し、独裁体制を固めていった。
これにより貧困や失業が深刻になった。
これに対し、福祉や教育、自由の共同努力を掲げる「ニュー・ジュエル運動」を中心にしたクーデターが起こり、ゲーリー政権は崩壊。
新たにマルクス主義の政治家であるモーリス・ビショップが首相に就任し、人民革命政府を樹立した。
ビショップ政権は商工会議所など国民に幅広い支持を受け、教育などの近代化に着手。
外交においても中立、非同盟を掲げ、アメリカが経済封鎖をかけているキューバに接近し、キューバとの関係を強めた。
アメリカはこれによってビショップ政権を敵視し1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンは「強いアメリカ」を自負し、グレナダに侵攻することを想定した軍事演習をプエルトリコのビエケス島で行うなど、圧迫を続けた。
そして1983年にビショップ政権内でクーデターが起こり、新たにハドソン・オースティンが首相に就任。
彼は革命軍事評議会を樹立し、ビショップらはプエルトリコで処刑される。
キューバはこの政権を支援し、財政的援助のほかに飛行場建設のために軍事訓練を施し武装した建設労働者を派遣した。
アメリカはこれに強い危機感を抱き、グレナダがソ連やキューバなどの社会主義国に影響を受けた「第二のキューバ」となることを防ぐため、武力介入を決断した。
侵攻 †
1983年10月25日、レーガン大統領は「現地人の新政府構築と現地アメリカ人の保護」という大義名分の下で、グレナダにアメリカ軍を派遣。
また国際的に認められた行動だということを演じるため、アンディグア・バーフーダなどのカリブ海諸国を誘い、共同出兵。
アメリカはグレナダにレンジャー部隊やネイビーシールズ、デルタフォースなどの特殊部隊、海兵隊など7,000人の部隊を派遣。
この侵攻作戦は「アージェント・フュリー(抑えきれぬ怒り)」作戦と命名された。
SEALsはグレナダの総督邸の奪還作戦などを担当。
他の各レンジャー部隊と航空支援部隊は空港占拠やアメリカ人医学生の救出を担当。
海兵隊はその支援をした。
グレナダ各地で戦闘が行われたが、アメリカの周到な計画や電撃的作戦で政府関連施設などを次々と制圧。
作戦は大成功に終わった。
侵攻後 †
CIAはグレナダ革命政府が共産化とアメリカに対する軍事施設建設を予定していた資料を押収し、またこれらの事件にソ連がかんでいたことが判明。
ソ連は中南米における方針転換を余儀なくされた。
またグレナダ島内にいたキューバや北朝鮮、リビア、東ドイツ、ブルガリアの国籍を持つ人々は軟禁を受けた。
アメリカ軍にとって、大規模な侵攻作戦はベトナム戦争以来だったが、この侵攻作戦の成功で、自信を回復した。
しかしこの侵攻はイギリスやトリニダード・トバゴ、カナダの強い批判を受け、国連総会で「国際法の破廉恥な侵害」と強い非難を受けた。