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【相互確証破壊】 †
Mutual Assured Destruction(MAD).
20世紀後半の冷戦期、アメリカとソ連が打ち立てた抑止力の概念。
要約すれば「報復として自分の頭上にも核弾頭が降ってくる事を承知で核攻撃を命令できる国家首脳など存在しない」の一言に尽きる。
この前提に立つなら、全ての仮想敵国首脳の頭上に必ず戦略核兵器を命中させられる体制(確証破壊)を整えておく事が、敵国の核兵器を使用不能にする最良の手段となる。
こうした思想に基づいて、アメリカ軍とソ連軍が核兵器を主軸とした戦略体系を構築し、相互に確証破壊を成立させた事により、世界中の誰も安易に核兵器を使用できない国際情勢が成立した。
運用においては「いかにして『国家首脳の頭上』に対して確実な報復を行える状況を維持し続けるか」が問題となる。
現実的には、全面核戦争が想定されるような情勢で政府中枢が平時と同じ場所にあるとは考えにくく、また、諜報活動によってその拠点を確定させることも期待できない。
よって、通常は敵国の領土全域で経済活動が不可能になるほどの無差別攻撃が行われるものと想定される。
また、戦略核兵器の所在が確定すると当然ながら破壊工作や先制攻撃で使用不能にされる危険性があるため、核兵器の分散配備、戦略哨戒、戦略潜水艦など、いささか偏執的な戦略を取る事となる。
関連:弾道弾迎撃ミサイル制限条約 弾道ミサイル 5分待機
問題点 †
相互確証破壊という概念は一つの時代を象徴する思想であり、多角的な検証によって数多くの批判が唱えられている。
自国の滅亡を不可避な前提として想定する戦略であるため感情的な批判は根強く、批判的プロパガンダ要素を含んだ娯楽作品も数多い。
とはいえ、現在に至るまで相互確証破壊はひとまず上手く機能している――少なくとも核戦争は起きていない。
しかし、そこに至るまでの経緯は偶然や幸運の産物であるという主張には一定の説得力があり、近い将来に核戦争が起きることを危惧する声はいまもなお少なくない。
相互確証破壊戦略に対する典型的な批判としては以下のようなものがある。
- 不時発射
核兵器の運用システムには、慎重の上にも慎重を重ねた安全システムが構築されているが、どれほど慎重に慎重を重ねても所詮は機械であり、不時発射されてしまう可能性が存在する。
想定されるトラブルとしては運用要員の操作ミス、自然災害、他国の工作員やテロリストによる運用施設の物理的な破壊、サイバーテロ、システム制御プログラムの欠陥*1などがある。
また、近年の情報開示や研究によって核兵器の紛失事故は実際に発生していた事が明かされている。
- ヒューマンエラー
核兵器の運用責任者が、つねに事態を正しく認識して正常な決断を行えるとは限らない。
事実、戦略哨戒の任務につく戦略爆撃機・戦略潜水艦のクルーや弾道ミサイル基地の発射管制官は、常に戦場と同様の強度のストレスに晒されていたという。
実際の所、「発狂した運用責任者が勝手に発射する」という事態は平時には起こり得ない運用体制*2が敷かれてはいるものの、本当に報復が必要になった状態でどこまで的確な運用が可能かについては疑問の余地がある。
- 一方的確証破壊
国家の視点で考えると「相互」確証破壊という状態は必ずしも望ましくない。
もし可能であれば、自国のみが確証破壊を成立させつつ他国のあらゆる報復攻撃を阻止できる「一方的確証破壊」こそが純軍事的には最善と言える。
ミサイル防衛など既存の核兵器を無力化する軍事技術の研究は現在も進められており、将来的に相互確証破壊が成立しない情勢を作り出すような軍事革命が起きないという保証はない。
また、現段階で核兵器保有国でない国家にとっては、現状がそもそも他国による一方的確証破壊であり、もし核兵器の使用に関して外交的同意が取れてしまえば、核兵器によって一方的に虐殺される危険性がある。
これはあまり現実的な仮定ではないが、後述する「核拡散」の脅威がかなり深刻な段階まで進行している現代では、あながち被害妄想とも言い切れない面が強くなってきている。
- 核拡散
相互確証破壊は基本的にソビエトとアメリカが核爆弾で殴り合うのを抑止するための概念であり、核兵器を保有する勢力の数が増えすぎると正常に機能しなくなる。
冷戦時代であれば、アメリカ国内で核爆弾が炸裂したなら状況を問わず「ソビエトの犯行」と決めつけて即座に報復を開始してしまえば良かった。
しかし、現在のニューヨークで水素爆弾が炸裂した場合、それを命じた者がどこにいるかを特定できるかどうかは疑わしく*3、仮に可能だとしても、それは「即座に」ではない可能性が高い。
また、破壊される事を厭わない、もしくは破壊されるものを持たないテロ組織が核を使用する場合も、報復すべき場所も基地も存在しない(いわゆる首都や指揮所に当たる部分がない)ため、核攻撃による報復は抑止力たり得ない。
この論理は、相互確証破壊に対する批判として現在もっとも深刻に受け止められている。
核兵器保有国の政府が崩壊し、その国家が保有していた核兵器、放射性物質、核技術者が散逸してしまう事態が実際に発生しており、現在でも核兵器に関する人的・技術的資源がどこまで拡散したかは判然としない。
同様の理由から、既存の核兵器保有国との外交関係が悪化している国家は、核兵器やその生産に転用できる原子炉、運搬に用いられる弾道ミサイル・宇宙ロケットの技術を取得しないよう、強烈な外交圧力をかけられる傾向にある。
- 世界最終戦争――第三次世界大戦
自明の事だが、核兵器保有国が国家総力戦に突入するような事態がひとたび発生してしまえばもはや「抑止力」は機能しない。
実際に戦略核兵器の撃ち合いが始まれば、交戦当事国のいずれもが報復攻撃による被害を最小限に抑えるべく、投入可能な最大限の核兵器で可能な限り最大限の被害を与えようとする。
結果、一通りの応酬が成された段階でどの交戦国も事実上指揮統制が機能しなくなり、「報復はもう十分だ」と判断する者もいなくなってしまうため、運用可能な核兵器が全て撃ち尽くされるまで核戦争は終結しないものと予想される。
この予想をさらに悲観的に発展させると、
「第三国への『流れ弾』が、連鎖反応的に世界中全ての核兵器によるデタラメな報復の応酬を引き起こし、最終的に世界中が核の炎に包まれ、人類のみならずあらゆる生物が絶滅する――すなわち、この戦争は『人類史上最後の戦争』となるだろう」
という「被害妄想の産物」と呼ばれかねない事態さえ起きる可能性が生まれてしまう。
これは20世紀末期に冷戦が終結するまでの長い間、あらゆる有識者に最も深刻視された批判である。
推定される被害のスケールから、プロパガンダの対象として非常に衝撃的で情感に訴えるものがあり、終末思想的な宗教観やディストピア文学、環境問題としての「核の冬」などと結びつく事で、「おぞましい」イメージの醸成が非常に容易だった事もあって、この風説を大衆に理解させるのは非常に容易だったのだろう。
特に日本においては、広島・長崎で実際に核攻撃を受けた経験と、戦後の革新勢力によるプロパガンダとの相乗効果から「核兵器による世界滅亡」というシナリオが極めて強烈な説得力をもって受け入れられていた。
殊に1980年代以降、第三次世界大戦後の世界を想定した「ポストホロコースト」という題材のフィクション作品が複数生まれ、21世紀となった現在まで続く一大ムーブメントを築いた*4。
*1 一例として、1990年代末期には「コンピュータ2000年問題」による不時発射の危惧が語られていた。
*2 例えば「使用の際には複数名の運用担当者が『同時に』操作しないと作動せず、各担当者の操作するスイッチも物理的に大きく離され、一人が同時に操作できないようになっている」など。
*3 物的証拠が核兵器の危害半径内にしか存在しない可能性がある。また、調査を終えるまで国家が存続しているとも限らない。
*4 西暦2000年の時点ですでに思春期を迎えていた(昭和50年代までに生まれた)日本人であれば、一度は「199X年、世界は核の炎に包まれた」というフレーズを見聞きした事があるはずだ。