【近衛師団】(このえしだん)

旧日本陸軍における師団のひとつで、親衛隊に相当する部隊
主任務は「禁闕守護(きんけつしゅご)(皇族・皇室の身辺警護)」及び「鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)(皇室儀礼における儀仗兵)」。

第二次世界大戦終戦による軍の解体までに合計3個師団が編成されたが、そのうちの「近衛第1師団」のみが上記の禁闕守護・鳳輦供奉に携わり、近衛第2・第3師団は通常の師団と同様に前線へ投入された。

1871年(明治4年)、薩摩・長州・土佐の三藩から派出された人員で編制された「御親兵(ごしんぺい)」をルーツとする。
当初、部隊は禁闕守護の他、「徴兵令」で入隊した兵士への基礎教練も受け持っていた。

明治維新の過程で旧幕府の軍事統制能力が破壊され、明治政府はその軍権をほとんど継承できなかった。
このため、倒幕後の軍事的空白を旧倒幕派諸藩の将兵によって埋めた形になる。
この采配は地縁による軍閥を形成する結果を招いており、敗戦に至るまで旧陸軍の政治的病巣として影響を及ぼし続けた。

やがて近代国家の体裁に則った軍制が整ってくると、御親兵は「近衛」を経て1891年に師団編成に改編され、「近衛師団」となった。
これ以降、禁闕守護や鳳輦供奉にあたる一方、戦時には野戦師団のひとつとして、必要に応じて戦地へ派遣する事が想定された(精鋭として温存される傾向にあったが)。

そうした経歴から、当時の帝国陸軍において最精鋭・最古参の部隊として知られていたが、一方で、以下のような反乱に関与する事もあった。

竹橋事件
「西南戦争(1877年に発生した日本国内の内戦)の論功行賞の遅れや不公平」「兵役制度への不満」などから起こったクーデター未遂事件。
二・二六事件
昭和初期、当時の陸軍将校内の一派「皇道派」が中心となって起こしたクーデター。近衛師団からも参加者があった。
宮城事件
昭和20年8月14日〜15日にかけて、ポツダム宣言の受諾(降伏)阻止を目的として起こされたクーデター未遂事件。

関連:親衛隊 第82空挺師団(アメリカ軍) アメリカ海兵隊 コロンビア州兵 コロンビア空軍州兵 政経中枢師団

軍制上の扱い

徴兵制の例に漏れず、当時の日本陸軍下士官を居住地から最寄りの駐屯地・鎮守府に配属させていたが、近衛師団はこの原則の例外であった。
近衛師団に配属される兵員は、兵役検査において特に眉目秀麗・姿勢良好な者を全国各地から選抜して配属させていた。

ただし、1940年からは基準が改められ、東京・千葉・神奈川・埼玉・山梨の各府(都)県出身者のみを配属させるようになった。
それまで関東地方南部の軍政を担当していた「歩兵第1師団」が満州に移駐するに際し、関東地方南部の軍政を近衛師団が引き継いだ形となる。

また、明治憲法下においては天皇が元帥陸軍大将元帥海軍大将(全軍の最高指揮官)となる事から、その子息である皇太子・皇太孫にも軍歴が求められた。
この軍歴について陸軍では近衛師団(海軍では第1艦隊連合艦隊は大正時代半ばまで「非常設の組織」であった))で預かるのが通例で、大正天皇・昭和天皇も共に即位前に近衛師団に籍を置いていた。

具体的には「皇族身位令」により、皇太子・皇太孫は満10歳になると陸軍少尉海軍少尉に任官され、以後、年齢に応じて階級が累進することになっていた。
なお、現在の明仁上皇も太平洋戦争中の皇太子時代に少尉任官される年齢を迎えていたが、父・昭和天皇の意向により軍籍は与えられなかった。

このようなことから、近衛師団への配属は慶事とされ、所属していた兵は退役後も在郷軍人として地域社会でさまざまな特別扱いを受けていたという。

また、こうした特別扱いのため、将兵が着用する制服にも以下のような特色が与えられていた。

  • 制帽の鉢巻部分、騎兵制服の飾り紐が、近衛兵のみ赤色だった
  • 騎兵が着用していた『ドルマン式上着』が、一般師団で廃止された後も『近衛騎兵下士官供奉服』として使用され続けた
  • 軍帽につく帽章『五芒星』の周りに桜葉の飾りがついていた
  • 制服は常に新品が支給され、その古着が一般部隊へ回された

第二次世界大戦にて

近衛師団は、編成上は一般の師団と同様に歩兵4個連隊騎兵1個連隊を中心とした編成をとっており、必要に応じて戦地への派遣が可能な体制をとっていた。
しかし実際には、1904年〜1905年の日露戦争への動員以後、30年以上に渡って実戦への出動がなかった。
1937年に支那事変(日中戦争)が勃発した当初も、内地の各師団が順次動員される一方で本師団への出動命令は出されなかった。

動員された他の師団の将兵が「あれはおもちゃの兵隊か」と近衛師団を嘲笑う事もあったという。
当時の師団長が昭和天皇と面会した折、「将兵一同は皆出征を希望しております」と具申したという記録もある。
(具申そのものは誇張か誇大妄想だと考えるのが妥当だが、師団の内部で参戦を強要するような社会的圧力・強迫観念が蔓延していた可能性は高い)

遅れて、1939年に近衛師団から抽出した「近衛混成旅団」が編制され、実戦に投入された。
近衛混成旅団は第21軍の隷下に組み込まれ、広東や南寧での戦闘に参加した後、第22軍の隷下としてフランス領インドシナ(現在のベトナム)へ進駐した。

インドシナ進駐後、同旅団に参加していた近衛歩兵第1・第2連隊など一部の部隊は復員して東京へ戻り「留守近衛師団」となった。
近衛歩兵第3・第4連隊等の部隊は戦地に残留し、兵力を拡充して第25軍隷下の「近衛師団」として太平洋戦争緒戦のマレー・スマトラ攻略戦に参加。

昭和18年(1943年)に「留守近衛師団」として東京に残留した部隊の兵員を「近衛第1師団」として再編成
スマトラに駐留した兵力は「近衛第2師団」となり、終戦までスマトラ島に駐留し続けた。

昭和19年(1944年)には留守近衛第2師団(旧:留守近衛師団)から近衛第1師団に合流しなかった兵員を基幹として「近衛第3師団」を新たに編成。
近衛第3師団は千葉県・成東(現:山武市)に駐留し、終戦まで連合国軍の上陸に備えた防衛体制を取っていた。
ポツダム宣言受諾により日本が降伏したため、近衛第3師団が実戦に参加する事はなかった。

その後

連合国による占領統治による旧日本軍の解体に際し、近衛師団も解体された。
この際、近衛第1師団と皇宮警察が統合された「宮内省禁衛府皇宮衛士総隊」が皇居・皇室の身辺警護任務を継承する事となった。
しかし、この禁衛府皇宮衛士総隊もGHQの命令によってまもなく廃止された。

第一次世界大戦後のドイツが警察軍を基幹として再軍備を果たしたため、日本でも同様の経緯を辿る事が警戒されていた。
実際、旧陸軍の残存派閥が禁衛府を中核として再軍備を目論んでいた事を示す状況証拠が多数見つかっている。

その後、朝鮮戦争の勃発を契機にして警察軍(国家憲兵)に相当する武装組織「警察予備隊」(後の陸上自衛隊)が創設。
この際、近衛師団の後継となる部隊「竹橋駐とん部隊(仮称)」の創設が検討されたが、旧軍閥を警戒・憎悪する警察当局から強固な反対を受けて頓挫。
現代に至るまで、皇居・皇室の警護任務は警察庁の「皇宮警察」が受け持っている。


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