【パナマ侵攻】 †
概要 | ||
戦争 | 冷戦 | |
年月日 | 1989年12月20日〜1990年1月31日 | |
場所 | パナマ | |
結果 | アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | アメリカ | |
パナマ | ||
戦力 | アメリカ側 | 57,384名以上 |
パナマ側 | 16,000名以上 | |
損害 | アメリカ側 | 死者24名、負傷者325名 |
パナマ側 | 死者100〜1,000名 |
1989年から1990年にかけて、アメリカが中米パナマに軍事的侵攻を行った事件。
背景 †
当時のパナマは最高司令官マヌエル・ノリエガ将軍による軍事独裁政権が敷かれていた。
この政権は冷戦下の革命政権に関する多重スパイ行為や麻薬密売ルートの温床など、国際的な問題を抱えて孤立下にあった。
1989年5月、ノリエガ将軍は大統領選挙に出馬するも、落選すると軍隊を動員して選挙の無効を宣言し、独裁体制の保持を図った。
これに反発して同年に2回のクーデターが発生するも、いずれも敗北。
ノリエガ将軍は独裁体制を保持するために新たに「国家最高指導者」というポストを設け、12月15日に自ら就任した。
この時、当時のアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはパナマの民主化と麻薬ルート撲滅とパナマ民主化を掲げて介入を強化。
しかし反ノリエガ勢力への軍事援助を行いはしたものの、クーデターへの直接支援は行わなかった。
侵攻開始 †
1989年12月17日、アメリカはパナマへの大規模な侵攻を決定。
目的は「民主主義の確保、在留アメリカ人の保護、パナマ運河の安全確保、ノリエガ将軍の逮捕」であった。
12月20日、パナマ侵攻作戦「ジャスト・コーズ*1作戦」が発動。
同日未明に空軍・海軍・陸軍からなる57,384人の軍団がパナマ国家防衛軍と交戦。
当時最新鋭の航空機を背景に圧倒的な戦力差でパナマ軍は撃破され、開戦後まもなく首都パナマシティが占領された。
その後 †
先のパナマ大統領選挙で当選するもノリエガに排斥された野党のギジェルモ・エンダラが米軍基地にて大統領に就任。
パナマ国家防衛軍は解体され、国家保安隊(警察機関)として再編された。
ノリエガ将軍は敗勢を悟って逃亡し、パナマのバチカン大使館に駆け込んで政治亡命を図った。
しかしバチカンはアメリカ側の要求に応じて彼を大使館から退去させ、ノリエガは1990年1月31日に投降。
身柄を移送されたノリエガはアメリカで裁判を受け、1992年4月に麻薬密売容疑などで禁固40年の判決を受ける。
後に30年に減刑され、さらに模範囚だったため2007年9月に釈放されるも、釈放直後にフランスに移送され、パリの裁判所にて禁固7年の有罪判決が下されている*2。