【サッカー戦争】(さっかーせんそう)

戦争  サッカー戦争
年月日 1969年7月14日〜7月19日
場所  エルサルバドル、ホンジュラス国境地帯
交戦勢力エルサルバドル 対 ホンジュラス
結果  米州機構(OAS)の調停により停戦
戦力エルサルバトル陸軍:20,000名、空軍:1,000名・航空機約20〜30機
ホンジュラス陸軍:12,000名、空軍:1,200名・航空機約30〜40機
損害エルサルバトル700名(市民含む)
ホンジュラス1,200名(市民含む)


1969年7月15日にホンジュラスとエルサルバドルの間で勃発した戦争。
別名「100時間戦争」「エルサルバドル・ホンジュラス戦争」とも。

歴史的背景

なぜサッカー戦争となったのかはさておき、ホンジュラスとエルサルバドル間で戦端が開かれた事自体は歴史的必然だったと言える。
両国間では長らく緊張・対立が続き、いつ戦争に発展してもおかしくない情勢が形成されていた。

エルサルバドル移民
エルサルバドルは外貨の大半をコーヒー農業に依存するモノカルチャー経済であり、富の大半が少数の農場所有者に集中して深刻な経済格差を生じさせていた。
このため、エルサルバドル人貧困層が移民となって隣国ホンジュラスに流出した。
ホンジュラス国内労働人口の10%以上をエルサルバドル移民が占めるに至り、移民と先住民との民族対立が激化。
ホンジュラス政府は1969年に農地改革法を実施し、エルサルバドル移民から土地を没収して国外追放に処した。
貿易摩擦
エルサルバドルはホンジュラスより先んじて1950年代から工業化を推進した。
結果、エルサルバドル製工業製品がホンジュラス国内市場を圧迫し、工業化に利する海外資本もホンジュラスを避けてエルサルバドルに投資された。
これによって両国間に経済的不均衡が生じ、ホンジュラス国内に憎悪を醸成した。
係争地
エルサルバドル・ホンジュラス間の国境基準点となっていた河川は雨期と乾期とで変化が激しく、国境線が未確定だった。
このため、両国の国境警備隊が帰属不明な土地を徘徊し、遭遇戦が続発していた。

戦争の経緯

1969年4月
ホンジュラスのアレジャーノ大統領が農業改革法を実施。この法は事実上のエルサルバドル人追放法だった。
以降数ヶ月間に推定14,000〜50,000人のエルサルバドル移民がホンジュラスからの退去を余儀なくされた。
この強制退去に際してはホンジュラス市民や民兵による残虐行為が行われた形跡がある。
6月8日
サッカー・ワールドカップ予選、エルサルバドル対ホンジュラスの第1戦がホンジュラス首都テグシガルパにて実施。
試合自体はホンジュラス代表が勝利。
エルサルバドル代表の宿泊施設を暴徒が取り囲み、昼夜取らず爆音や罵声や投石を浴びせていた。
また、エルサルバドル人女性がサッカーの敗戦を苦に自殺し、その女性の葬儀がまるで国葬のように扱われた(政府要人の参列・テレビ中継など)。
6月15日
サッカー・ワールドカップ予選、エルサルバドル対ホンジュラスの第2戦がエルサルバドル首都サンサンバドルにて実施。
試合自体はエルサルバドル代表が勝利。
ホンジュラス代表の宿泊施設を暴徒が取り囲み、昼夜取らず爆音や罵声、投石や鼠の死骸を浴びせていた。
ホンジュラス人サポーターがエルサルバドル人の暴徒に襲撃され、自動車150台が放火され、2名が撲殺された。
6月15日
サッカー・ワールドカップ予選、エルサルバドル対ホンジュラスの最終戦がメキシコ首都メキシコシティにて実施。
メキシコ政府は催涙弾を装備した機動隊員を投入して試合会場内に厳戒態勢を敷いた。
試合自体はエルサルバドル代表が勝利。
予選終了直後、ホンジュラス内に残留していたエルサルバドル移民が襲撃を受け、12,000人近くがエルサルバドル領内に避難した。
6月23日
エルサルバドル政府が国家非常事態を宣言し、予備役軍人を招集。
6月26日
エルサルバドル政府、自国民への迫害を理由としてホンジュラスとの国交断絶を宣言。
6月27日
ホンジュラス政府、エルサルバドルとの国交を断絶して国防上の措置を執ると宣言。
7月3日
エルサルバドル北西部エルポイの国境監視所にて空爆および歩兵戦闘が発生(経緯不詳)。
7月4日
エルサルバドル外務省は米州機構に向けてホンジュラス非難の声明を発し、米州機構の理事会が協議を開始。
7月9日
ホンジュラス領内インティブカ県の村落が襲撃を受ける。警官隊と衝突するも死傷者なし(ホンジュラス側の主張。真相不明)
7月12日
エルサルバドル陸軍部隊が国境侵犯、10km侵攻した地点でホンジュラス陸軍と交戦。エルサルバドル兵14名が死亡。
7月13日
同日早朝から3時間、両軍がエルポイにて交戦。
同日、米州機構理事会はアルゼンチン、エクアドル、コスタリカ、ドミニカ、ニカラグア、グアテマラ、アメリカ合衆国の合同による平和維持団の派遣を決定。
同理事会にてホンジュラス代表とエルサルバドルが同席するも、非難の応酬に終始して没交渉に終わる。
7月14日
エルサルバドル政府、作戦行動の開始を決定。
エルサルバドル空軍、ホンジュラス首都郊外のトンコンティン国際空港を含む十数箇所の軍事目標空爆を実施。
空爆終了後、エルサルバドル陸軍が国境を越えて侵攻を開始した。
7月15日
ホンジュラス空軍が航空優勢を確保し、エルサルバドル領内への空爆を実施。
首都サンサンバドル近郊のイロパンゴ国際空港、港湾都市アカフトラの石油コンビナートなどが損害を受けた。
一方、陸戦はおおむねエルサルバドル側優位に推移し、ホンジュラスは国境沿いの都市を次々に失陥。
7月16日
前日の空爆によりガソリン供給に支障をきたしたため、エルサルバドル陸軍の侵攻が停止。
ホンジュラス代表、米州機構平和維持委員会に対し、エルサルバドル軍の撤退を条件として停戦に応じると発表。
エルサルバドル側は停戦を拒否。現実から乖離したプロパガンダを放送するなど常軌を逸した強硬姿勢を取り始めた。
7月17日
エルサルバドル政府、自国民への迫害の停止と戦争前の原状復帰を条件として停戦を承諾。
しかしエルサルバドル陸軍は終戦に向けた戦闘停止命令を下さず、侵攻を続行。
同日、ホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉が「史上最後のレシプロ戦闘機による空戦」にて敵戦闘機3機を撃墜。
(後にホンジュラスの国民的英雄として喧伝された)
7月18日
米州機構が停戦合意の成立を発表。停戦合意に基づいて両国軍を96時間以内に撤退させるよう求められた。
しかしエルサルバドルのエルナンデス大統領は撤退を拒否し、侵攻を継続させた。
7月19日
エルナンデス大統領、前線を視察中にホンジュラス軍から狙撃を受けたが、大統領は奇跡的に無傷だった(エルサルバドル側の発表。真相は不詳)。
米州機構、エルサルバドル軍が停戦命令を無視して侵攻を継続していた事実を把握。
7月21日
米州機構が緊急会議を招集。
現地に派遣されていた米州機構監視団代表セビラ・サカサは米州機構によるエルサルバドルへの軍事制裁を示唆した。
エルサルバドル陸軍はホンジュラス南部のバジェ県都ナカオメを包囲、首都テグシカルパに繋がる幹線道路を封鎖した。
7月23日
米州機構による撤退要求から96時間が経過したため、ホンジュラス軍が戦闘を再開。
ホンジュラス空軍が再び航空優勢を確保した。
7月29日
米州機構の席上において、エルサルバドル外務大臣は占領地域からの撤兵を発表。
米州機構はエルサルバドル軍に対して8月3日18時までに撤退を終えるよう要求した。
8月3日
米州機構顧問団の監視下にて、エルサルバドル軍全部隊の撤退が完了し、終戦。

戦後

エルサルバドルの帰還兵と大統領は終戦当初こそ英雄と讃えられたが、その栄光は長くなかった。
10万人を越えるといわれる在外邦人が一斉に帰国したために国内は失業者で溢れかえり、またホンジュラスへの販路が消えた事で工業収入も劇的に悪化。
1972年の大統領選挙を引き金に、エルサルバドルは反政府ゲリラ白色テロによる事実上の内戦に突入。
この内戦は1992年まで続き、エルサルバドル経済を決定的に衰退させた。

一方、ホンジュラスは祖国防衛戦争を経てナショナリズムを唱え、政治的安定を獲得。
隣国エルサルバドルも含めて中米各国が内戦に陥っていくなか、ホンジュラスは比較的平和な治政を維持した。

両国の国境では終戦後も散発的な遭遇戦が続いたため、米州機構の調停により、1976年に非武装地帯を設置。
この非武装地帯はエルサルバドル内戦におけるゲリラの巣窟と化していく。

ペルー政府の仲介により、エルサルバドル・ホンジュラス間の国交は1980年に回復。
1986年にはエルサルバドル・ホンジュラス間の国境問題が国際司法裁判所に委託された。
国境画定作業には以後20年の歳月を要したが、2006年にはエルサルバドル・ホンジュラス各大統領が公式に国境画定文書へと署名し、国境問題が終結した。


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