Last-modified: 2024-04-04 (木) 18:33:58 (24d)

【陸軍少年飛行兵】(りくぐんしょうねんひこうへい)

旧日本陸軍にあった、航空機搭乗員を養成するための教育課程のひとつ。「少飛」と略された。
海軍の予科練(飛行予科練習生)と同様、陸軍下士官航空機の取扱技術(操縦・整備・偵察・通信*1航法・射撃・爆撃)を教導するものであった。

なお、海軍の予科練が「将来の特務士官*2」の育成を目指していたのに対し、少年飛行兵はあくまでも「下士官」としての育成を目指していたという。
そのため、予科練に比較すると、少年飛行兵のカリキュラムには一般教育や語学などの講義時間は大幅に少なかったり、割愛されたりしていた。

制度の始まりは1933年、「陸軍飛行学校ニ於ケル生徒教育ニ関スル件」という勅令により、「航空兵科現役下士官ト為スベキ生徒」として一般及び陸軍部内から募集したのに始まる。
当初の受験資格は、機体の操縦にあたる「操縦生徒」が満17歳以上19歳未満、機体の整備などにあたる「技術生徒」が15歳以上18歳未満で、学歴は高等小学校卒業程度とされていた。

そして翌1934年、第一期生が埼玉県・所沢の所沢陸軍飛行学校に入校。
翌1935年には技術生徒が所沢陸軍飛行場内に新設された陸軍航空技術学校へ移動し、同校で約3年間の教育を受けることになった。
一方、操縦生徒は同年に埼玉県・熊谷に開設された熊谷陸軍飛行学校に第2期生から移駐し、約2年間の操縦教育を受けた。

なお、当時の生徒は、入校中は軍籍を与えられず、卒業後に上等兵階級を与えられて部隊に配属され、約1年間の訓練と下士官候補者勤務を経て伍長に任官されていた。

1938年、それまでの操縦生徒と技術生徒を分けて教育していたのを統合し、東京陸軍航空学校に毎年2回入校させ、約1年間の基礎教育の後に操縦・技術・通信の3つの分科に指定して2年間の専門技術教育を受けることに変更された。
また、採用基準も「15歳以上17歳未満・学歴は尋常小学校卒業程度」に引き下げられ、より多くの人材を集められるようになった。

飛行機乗り」は当時の少年の憧れの的であり、海軍の「予科練」と同様、多くの入隊志望者が殺到した。
そしてこの課程を卒業した卒業生は、陸軍航空隊のパイロットの主軸として、各地の戦場で多大な戦果を挙げていた。
また、大戦後半には「特別操縦見習士官*3」とともに陸軍特攻隊の主軸ともなり、多くの戦死者を出した。

1943年には東京陸軍航空学校が「東京少年飛行兵学校」「大津少年飛行兵学校」に改編され、この各校に毎年2回入校させて1年間の基礎教育を行い、その後に操縦・技術・通信の各分科に分かれて専門教育を行うように改められた。
同時に、受験資格を20歳未満に繰り上げ、少年飛行兵学校に入校せずに直接、専門教育を行う学校に入校する「乙種制度」が定められ、従来の制度は「甲種制度」となった。

「乙種制度」は、戦況のひっ迫に伴い、試験での優績者を速成教育する試行的な制度だったが、まもなく「特別幹部候補生制度」に移行したため、甲乙の種別は廃止となっている。

1945年8月、第20期として採用された2,000名が基礎教育の各学校に入校後まもなく、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏と陸軍の解体によって少年飛行兵制度は廃止となった。

予科練は終戦直前に教育が中止された(所属していた兵員特攻要員になった者以外は陸戦隊などに転属した)のに対し、少年飛行兵は終戦の直前まで教育が続けられていた。


*1 当時の航空機搭載通信機器の操作は困難極まるもので、専門の技術者を必要としていた。
*2 水兵下士官を経て任官された士官海軍兵学校卒業の士官とは人事取扱が別個になっていた。
*3 旧制大学・専門学校の学生を見習士官(曹長待遇)で採用し、爾後士官に登用したもの。

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