Last-modified: 2024-01-02 (火) 15:27:15 (116d)

【朝鮮戦争】(ちょうせんせんそう)

戦争概要
年月日1950年6月25日〜継続中*1
場所朝鮮半島
結果朝鮮半島の分断状態固定
交戦
勢力
国連軍大韓民国、アメリカ合衆国、連合王国(英国)
(戦闘支援)コロンビア共和国、フランス共和国、カナダ、オランダ王国、ベルギー王国、
トルコ共和国、タイ王国、フィリピン共和国、ルクセンブルグ大公国、
ギリシャ王国、オーストラリア連邦、ニュージーランド、エチオピア王国、
南アフリカ連邦
機雷掃海)日本国(連合国軍占領下)
(医療スタッフ派遣)デンマーク王国、インド、イタリア国、イスラエル、ノルウェー王国、
スウェーデン王国
(その他支援)エルサルバドル、キューバ、スペイン、中華民国(台湾)
共産軍朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国、ソヴィエト社会主義共和国連邦*2
(医療支援)チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア
(その他支援)インド、モンゴル


1950年6月、朝鮮半島北部(北緯38度線より以北)を実効支配している「朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)」が、南部を支配している「大韓民国(韓国)」へ侵攻して勃発した戦争。
「朝鮮戦争」というのは現在の呼称で、当時は「朝鮮動乱」と呼ばれていた。

その発端

1945年の第二次世界大戦終結まで日本(大日本帝国)の支配下にあった朝鮮半島は、日本がポツダム宣言を受諾して降伏したことにより、突然独立を果たした形になった。
しかし、当時の朝鮮には国外に独立を目指す組織がある程度で、国家としての体制の整備は難航し、政府に準ずる組織が3つ並列するなど混乱を極めており、北緯38度線を境に北側がソ連軍、南側がアメリカ軍の占領下に置かれ、それぞれが朝鮮人による自治政府を樹立*3する事で一応国家としての体裁を整えた。
双方とも「自らが朝鮮半島唯一の正当な自治政府である」と主張して対立が続いていた。

そして南北両政権が主張する朝鮮半島の領有権に起因する摩擦などを経て1950年1月、アメリカのアチソン国務長官が
「米国が責任をもつ防衛ラインはフィリピン〜沖縄〜日本〜アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」
と発言、事実上米軍の力が朝鮮半島に及ばないことを公式に宣言した形となった*4
また、それを裏付けるかのようにGHQ総司令官・マッカーサーも朝鮮半島には一度しか足を運ばず、アメリカが南側に与えた装備も北と対峙するにはあまりに貧弱であった。
これらは日本の統治と防衛に専念した結果であったが、アチソン宣言とこのようなアメリカの動向を受けた北朝鮮政府は、「アメリカは近い将来、朝鮮半島南部を放棄するだろう」と判断、朝鮮半島の武力統一を目指して侵攻作戦を開始した。

戦闘の推移

当時最新鋭だったT-34戦車を中核とした、北朝鮮軍の奇襲攻撃(国境会戦)に対して、韓国軍は経験や装備の不足から*5有効な対処が出来ないまま総崩れとなり、瞬く間にソウルが陥落すると言う事態に陥った。
これに対し、アメリカはソ連が安全保障理事会をボイコットしていたのを利用し、安全保障理事会にアメリカ軍を中心とした国連軍の派遣を要請、可決された。
国連軍は韓国救援のため派兵されたものの敗退を続け、6月末には半島南端の釜山(プサン)にまで追い込まれた。
同年9月、国連軍総司令官マッカーサー将軍は、ソウル近くの仁川(インチョン)に部隊を上陸させる奇襲作戦に成功し、9月29日にソウルをほぼ奪還。
これにより釜山とソウルからの挟撃を受けた北朝鮮軍は撤退を始め、国連軍は10月には平壌(ピョンヤン)を制圧、中国国境に迫った。

ところが、前年に中華民国を台湾に追いやって成立したばかりの中国(中華人民共和国)が、国連軍の躍進によって資本主義国家と国境を隣接することを嫌い軍事介入を決断。
義勇軍」という名目のもと、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大量派兵を行い、山間部を移動しながらの攻撃と人海戦術によって国連軍は押し戻され、12月に平壌、1951年1月には再びソウルが北朝鮮によって奪還された。
しかし、中国人民志願軍は近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていたため、度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。
これに対し体勢を立て直した国連軍も反撃を開始、同年3月にソウルを再び奪回し、それ以降は北緯38度線付近で戦線が膠着した*6

この戦況を打開するため、マッカーサー将軍は中国軍の兵站拠点となっていた満州への爆撃核兵器使用を主張して米国政府と対立、最終的に司令官職を解任されてしまった*7

そのため、1953年7月に板門店(バンムンチョム)で休戦協定が結ばれ、北緯38度線付近に軍事境界線(非武装地帯)が引かれた状態で戦闘が一時中断となった。
これ以後、2024年現在に至るもなお休戦状態が続いている。

このため、韓国・北朝鮮双方とも現在でも準戦時体制が敷かれており、徴兵制が存置されている。
なお、大韓民国はこの休戦協定には参加していない。

日本への影響

当時、日本は連合国軍最高司令部(GHQ)のもと、アメリカ軍を中核とする連合国軍による間接軍政統治下にあったが、この戦争で、日本は国連軍兵站基地として活用されることとなり、これにより巨額の「戦時特需」が発生した。
これが企業の設備投資の活発化や雇用の増大をもたらし、日本経済は第二次世界大戦終戦後の困窮状態から一転して大幅な好景気となった。
そしてこれは、現在にまで繋がる経済発展の基礎となった。

また、米軍の日本駐留部隊の大半が朝鮮半島へ送られたことで空白となった日本国内の防衛のため、GHQ総司令官でもあったマッカーサー将軍の働きかけにより、日本人で構成される武装組織「警察予備隊」が設立された*8
(後にこれは「保安隊」を経て陸上自衛隊の母体ともなった)
更に、朝鮮半島近海に散布された機雷を除去するため、海上保安庁隷下にあった海上警備隊(現在の海上自衛隊の前身)は掃海部隊を極秘に派遣した*9

そのため、この戦争は2024年現在に至るまで「日本が参戦した最後の戦争」となっており、また、このときに殉職した海上保安官は「2024年現在、日本が参戦した戦争における日本人最後の戦死者」ともなっている*10


*1 1953年7月27日以後、組織的戦闘は実施されていない。
*2 顧問団派遣及び物資支給。
*3 当初はテヘラン会談、ヤルタ会談により「日本との戦争が終わったのち、数十年間、連合国が信託統治する」ことになっていたが、アメリカ・英国・ソ連のいずれも同地の統治には関心を持たなかった。
  その影響か、南側での米軍による軍政は殆ど機能しなかった。

*4 本来は、アメリカの国防政策において、「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味合いのものだった。
*5 当時は軍事協定によって重火器が不足しており、戦車は1両も装備しておらず、また航空機もほとんど装備していなかった。
*6 この間の戦線の激しい移動が、後年「アコーディオン戦争」との異名がつく基となった。
*7 これにより一切の公職から引退することになった(元帥の階級は終生保持していた)氏は、帰国後、コンピュータおよびタイプライターメーカーの「レミントン・ランド」社に会長として迎えられて余生を過ごし、1964年に現役のまま逝去した。
*8 当時、日本の施政権下から切り離され、同じように駐留部隊が朝鮮半島に送られていた沖縄でも同様の武装組織「琉球警察軍」の編制が検討されたが、実現しなかった。
*9 この派遣は正式な法的手続きを経ていなかったため、後に国会で問題となった。
*10 ただし、解釈によっては大東亜戦争末期にフィリピン・ルバング島へ派遣され、1972年10月にフィリピン警察軍との銃撃戦により死亡した小塚金七上等兵が「最後の戦死者」となる。

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