【大和】 †
1930年代の日本で建造された、世界史上最大級の戦艦。
軍艦として特筆に値するような戦果は残していないが、戦後の文化的潮流によって伝説的名声を博した。
設計特性 †
日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告した1934年末、仮称「A-140」と称した新戦艦建造計画により建造開始。
当初はディーゼルエンジンと蒸気タービンの併用が計画されていたが、ディーゼル機関の開発が難航し、タービン機関のみで建造を開始した。
設計にあたっては対米戦を想定し、隻数で勝るアメリカ海軍を精鋭少数艦にて撃滅する事を目的とした。
そんな事が本当に可能だったのかはさておき、当時の日本軍はパナマ運河の通航制限を踏まえ、火力優位の確保が可能だと考えた。
結果、パナマ運河を通航可能な艦幅では搭載不能と思われる46センチ艦載砲の搭載を決定。
この46センチ砲用に開発された九一式徹甲弾は、至近弾が着水した場合でも喫水下で直撃すれば損害を与える事ができた。
なお、砲撃戦においては有効射程25,000〜30,000メートル程度で敵戦艦の甲板装甲の貫通を企図している。
この有効射程は当時既存の戦艦でも応戦可能な距離であり、数で勝る敵を少数で撃破するという建造目的には合致していない。
主砲に併せて大きな艦幅を確保すると共に、重要区画は自身の46センチ砲に堪えられる装甲を施された。
艦体全てに対応防御を施せるほどの積載能力は確保できなかったため、重要区画以外は徹底的に軽量化する集中防護策が取られている。
最高速度は27ノット。
日本の戦艦の中では速い部類に入っていたが、当時の列強各国の新鋭戦艦と比べれば遅い部類に入る。
なお、1番艦が竣工した1941年はすでに航空主兵主義の時代であり、事実上、竣工当初から戦略上の存在意義を喪っている旧式艦であった。
内装 †
旗艦設備を備えていたこともあり、内装はかなり豪華であった。
水兵の寝床は当時一般的だったハンモックでなくベッド、冷暖房とエレベーターを完備。
連合艦隊旗艦として長きに渡って温存された事もあり、将兵から「大和ホテル」「武蔵御殿」などと揶揄されることもあった。
なお、冷房は艦内温度が致死的なほどの高温であった(火薬庫に至っては自然発火の恐れがあった)ため生命維持のため設置されたものである。
ベッドも乗員の勤務実態を考えれば疲労回復のために必要であったし、エレベーターが設置されたのは徒歩移動が至難となるほどの巨艦であったためである。
冷房の必要性から派生して当時まだ珍しかった冷蔵庫も設置され、鮮度の良い生鮮食料品は乗員から好評を得ていたという。
略歴 †
大和 | 武蔵 | |
1937年11月4日 | 呉工廠にて起工。 | |
1938年3月29日 | 三菱長崎造船所にて起工。 | |
1940年8月8日 | 進水 | |
1940年11月1日 | 進水 | |
1941年12月16日 | 竣工 | |
1942年2月12日 | 太平洋戦線へ投入、連合艦隊旗艦となる。 | |
1942年5月29日〜 | ミッドウェイ作戦に参加。 | |
1942年8月5日 | 竣工 | |
1943年2月11日 | 連合艦隊旗艦を「武蔵」に移す。 | |
1943年2月12日 | 連合艦隊旗艦となり、太平洋戦争に参加。 | |
1944年3月31日 | 連合艦隊旗艦から解任。将旗は軽巡洋艦「大淀」に委譲。 | |
1944年6月15日〜 | マリアナ沖海戦に参加。 | マリアナ沖海戦に参加。 |
1944年10月22日〜 | レイテ沖海戦に参加。 | レイテ沖海戦に参加。 |
1944年10月24日 | シブヤン海において、米軍機の攻撃を受け沈没 | |
1945年4月6日〜 | 沖縄特攻作戦に参加。 | |
1945年4月7日 | 九州南西沖にて米軍機の攻撃を受け沈没 | |
1945年8月31日 | 除籍 | 除籍 |
総括して、戦艦として特筆すべき戦果・実績はなく、敗軍の艦、敗戦間際に沈んだ戦艦であるとしか言いようもない。
しかし、昭和27(1952)年8月、大和の乗員であった吉田満の著書『戦艦大和ノ最期』によって爆発的な知名度を獲得。
戦後日本における『戦艦大和』の知名度はほぼ全てが戦後の戦記文学を起源とするサブカルチャーであり、歴史的実態からは著しく乖離している。
時を同じくして、『アメリカの物量に負けて敗戦したが科学技術では勝っていた』という、事実に反する偏向した歴史観が日本国内に蔓延し始めた。
防諜 †
大和級は当時の日本軍の防諜・情報秘匿における希少な成功例で、アメリカは戦後まで大和級の詳細情報を入手できていなかった。
日本の一般国民は大和級の存在自体を全く知らされておらず、建造された呉軍港の地元民ですら「巨大な軍艦を作っている」程度の事しか察していなかった。
戦艦は戦中日本の戦意高揚政策においても重要な文化的象徴であったが、その題材としてはもっぱら長門級が宛てられ、大和級は秘匿され続けた。
同型鑑 †
艦名 | 主造船所 | 起工 | 進水 | 就役 | 除籍 | 備考 |
大和 | 呉海軍工廠 | 1937.11.4 | 1940.8.8 | 1941.12.16 | 1945.8.31 | 1945.4.7戦没 |
武蔵 | 三菱・長崎 | 1938.3.29 | 1940.11.1 | 1942.8.5 | 1945.8.31 | 1944.10.24戦没 |
信濃 | 横須賀海軍工廠 | - | 航空母艦に改修して就役 | |||
(仮称)111号艦 | 呉海軍工廠 | - | 1942.3. 建造中止・解体 |
性能諸元 †
大和 | 武蔵 | |
排水量 (公試/基準/満載) | 69,000t/64,000t/72,809t | -/65,000t/72,809t |
全長 | 263.0m | |
水線長 | 256.0m | |
全幅 | 38.9m | |
喫水 | 10.4m(公試) | |
主缶 | ロ号艦本式罐・重油焚×12基 | |
主機 | 艦本式オールギヤードタービン×4基 4軸推進 | |
出力 | 150,000hp | |
燃料搭載量 | 重油:6,400t | |
速力 | 27kt | |
航続距離 | 7,200海里/16kt | |
乗員定数 | 約2,500名(竣工時) 3,332名(最終時) | 約3,300名 |
武装(竣工時) | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×4基12門 八九式40口径12.7cm連装高角砲×6基 九六式25mm3連装機銃×8基 九三式13mm連装機銃×2基 | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×4基12門 40口径12.7cm連装高角砲×6基12門 25mm3連装機銃×12基36門 13mm連装機銃×2基4門 |
武装(最終時) | 45口径46cm3連装砲×3基 60口径15.5cm3連装砲×2基 40口径12.7cm連装高角砲×12基 25mm3連装機銃×52基 25mm単装機銃×6基 13mm連装機銃×2基 | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×2基6門 40口径12.7cm連装高角砲×6基12門 25mm3連装機銃×35基105門 25mm単装機銃×25基25門 13mm連装機銃×2基4門 28連装12cm噴進砲×2基56門 |
装甲 | 舷側:410mm 甲板:200〜230mm 主砲防盾:650mm 艦橋:500mm | 舷側:410mm 甲板:200mm 主砲防盾:600mm |
艦載機 | 零式水上偵察機?・零式水上観測機?ほか×7機 | |
装備 | カタパルト×2基 | |
電探 | 21号電探(大和は1942年7月に、武蔵は新造時から装備) 22号電探(1943年7月に搭載) 13号電探×2基(後檣部、1944年初頭に設置) | |
照準装置 | 15.5m測距儀×4基(艦橋頂上、各主砲塔) 10m測距儀×1基(後部艦橋(予備)) 九八式方位盤照準装置改一(後部艦橋) 九八式射撃盤(機械式アナログコンピュータ) |