【タラーン】 †
таран/taran
戦闘機などによる敵性航空機を対象とした、機体の一部または機体自体を用いる攻撃のこと。体当たり攻撃。
独ソ戦中のソ連軍では一般的な戦術だった。
最初の体当たり攻撃は、1914年にロシアのパイロット、ピョートル・ネステロフによって行われた。
彼は自機の主脚をもって敵機への攻撃を行おうとしたが、目測を誤り機体同士が衝突。両機とも墜落しパイロットは死亡した。
機体の一部を使用し敵機を破壊する行為は、非常に危険ではあるものの生還を前提としたものであり、パイロットの意思によって実行された。
以降、これはロシア/ソ連で「タラーン戦術」として定着、スペイン内戦、日中戦争の支援時、ノモンハン事変、そして独ソ戦などで行われた。
実施方法 †
タラーンには少なくとも3種類の方法があった。
1つ目は、プロペラをもって敵機の尾翼、方向舵を破壊するもの。
技量は必要だが最も安全であり、タラーン後に飛行して帰還するケースも多くあった。
2つ目は、自機の翼で敵機の舵や翼を破壊するもの。
一部を損傷するが、原形をとどめる事は多く、こちらも帰還や不時着が出来る事もあった。
3つ目は、機体ごと相手に体当たりするもの。
上記の2つが行えない状況や、それらに失敗した場合はこれとなる。
非常に危険であり、これを行う場合生存は見込めないとされる。
タラーンはパイロットがとり得る敵機撃墜手段の一つであり、(第二次世界大戦末期の日本軍のように)この攻撃方法の強制や、タラーン専門の部隊が組織されることは無かった。
1944年夏、ソ連軍ではタラーンの禁止令が公布されたが、これ以降もタラーンは非公式に行われていたとされている。
独ソ戦における最後のタラーンは、アレクサンドル・L・コレスニコフによって行われた。
1945年4月20日、彼は偵察機の護衛機として出撃、その護衛対象を守る為敵機へタラーンを敢行し戦死した。
複数回タラーンを行ったパイロットは数十名おり、中でもボリス・コブザンは最多となる4回のタラーンに成功している。
他に1つの空戦中に2回のタラーンを行ったパイロットも存在する。
独ソ戦におけるタラーンの件数は500を超えるが、そのうち無事基地へ帰還・不時着したものは233、パラシュートで脱出したものは176、死亡が216、行方不明が11となっている。
この統計によると、タラーンの生還率は64%で、死を確約する戦術でなかったことが伺える。