Last-modified: 2024-04-20 (土) 10:52:50 (32d)

【水雷艇】(すいらいてい)

Torpedo Boat.

19世紀後半に登場した小型戦闘艦艇の一種で、水雷兵装を主に搭載し、敵大型艦艇に対する攻撃を行うもの。
後に対抗手段として駆逐艦が登場し、これに代替される形で消えていった。

なお、英語呼称の「Torpedo Boat」は「魚雷艇」のこともさす*1が、こちらは内燃機関搭載のモーターボートであるのに対し、本稿記載の「水雷艇」は主に外燃機関蒸気機関蒸気タービン)搭載の小型船舶であり、全く別のものであった。

それまで、小型艇をもって敵の大艦を攻撃するには、船首から長い棒を突き出し、その先端に触発信管つきの爆薬を取り付けた「外装水雷」が用いられていた。
しかし、これは敵艦と舷を接するまで接近する必要があり、攻撃を仕掛けた自艇をも危険にさらしかねない欠点があった。

やがて「自走する水雷――魚雷」が発明されると、小型艇に魚雷発射管が設けられるようになり、敵艦から離れたところからの攻撃が可能になった。
当時、装甲艦に搭載の砲をもってしても大型の装甲艦を撃破することは困難とされていたが、魚雷を用いれば安価な小型艦艇でも大型艦の懐に潜り込み、喫水線を攻撃して撃破することが可能になったため、1880年代には水雷艇の需要が一気に増し、各国海軍がこぞって建造した。

これに従って、水雷艇の排水量も大きくなっていき、100トン級の艇が出現するようになった。
また、機関の改良も進み、20ノット級の速力を発揮する艇も現れた。

そうした水雷艇が大量に投入された戦いとして、日清戦争中の1895年に行われた「威海衛の戦い」がある。
この戦いでは、2晩にわたって延べ15隻の水雷艇が投入されて清国艦4隻が沈められ、清国北洋艦隊は事実上行動不能になっている。

こうして水雷艇のバトルプルーフが証明されると、対抗手段も当然現れる。
まず1880年代後半に、水雷巡洋艦を基に小型・高速化を図った「水雷砲艦」が登場した。
しかし、これは外洋航行能力が十分でなく、また、小型の船体に大出力の機関を搭載したため振動などのトラブルが絶えなかった。
その一方で「敵の水雷艇の攻撃を防ぐには、より大型・強力な水雷艇をもってするのが効果的である」という考え方が生まれ、「水雷艇駆逐艦」――駆逐艦が誕生することになった。

やがて、駆逐艦が水雷艇の上位互換として様々な任務を負うようになると、独航を前提とした水雷艇は建造されなくなっていったが、戦艦装甲巡洋艦などの大型艦艇に搭載する「艦載水雷艇」は1930年代ごろまで運用され続けていた。

ただし、当時の日本海軍における艦載水雷艇は、実質はピケット・ボートや交通艇の役割を果たしており、攻撃能力はなかった。

一方、1920年ごろからは「駆逐艦をより小型にした艦」としての水雷艇が建造されていくようになった。
日本では、1930年代のロンドン海軍軍縮条約による排水量制限の枠外で駆逐艦に匹敵する戦闘力を持たせた艦として、大正時代に廃止していた「水雷艇」の種別を復活させて建造が行われた。
しかし、これらの艦はいずれもトップヘビーに陥って船舶としての安全性が軽視されており「友鶴事件*2」のような大事故を起こすなどしたため、日本がロンドン条約を脱退して無条約時代に入ると建造されなくなっている。


*1 現代ではほとんどこちらの意味で用いられている。
*2 1934年、佐世保港外で「友鶴」が転覆し、100名以上の死者・行方不明者を出した事故。

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