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【連隊区司令部】 †
旧日本陸軍にあった組織のひとつ。
徴兵・動員・召集・平時における在郷軍人の指導などを任務として、日本本土各地に設置されていた。
(現在の自衛隊では地方協力本部がこれに近しいといえる)
日本本土各地に駐屯する師団*1の管理区域(師管区?)をそれぞれ4つに分け*2、おおむね歩兵連隊の所在地または近接した都市に置かれていた。
指揮官は「連隊区司令官」と呼ばれ、大佐の階級にある士官が任じられていた。
この他に、中佐以下の士官からなる副官(1名)及び部員(数名)、事務を補助する下士官2〜3名や軍属など、10数名の陣容であった。
連隊区司令官は、建前上は「連隊長」と同格であったが、3,000人前後の将兵を率い、戦時には戦場へ出征する連隊長に比すれば格下のきらいは免れ得なかった。
そのためか「陸軍大学校へ入校・卒業できなかった」「現役中に病を患った」「青年・中堅士官時代に上官に恵まれなかった」「勤務成績が悪かった」などの理由で同期生より出世の遅れた士官にとっては、軍人としてのキャリアの「終着点」と位置づけられていたという。
大東亜戦争における連隊区司令部 †
大東亜戦争開戦前の昭和16年(1941年)、連隊区司令部の設置基準がそれまでの「各歩兵連隊の所在地基準」から、「各府県に1個連隊区」と改められ、連隊区司令部は府県庁所在地に置かれることとなった*3。
その後、昭和20年(1945年)3月には、連合国軍の本土上陸侵攻に備えるべく、従来の連隊区司令部が全廃され、新たに所在地の防衛戦闘を担当する連隊区司令部(及び「地区司令部」)が設置された。
この時に設置された「連隊区」の司令官には、予備役の少将もしくは中将が任ぜられ、地区司令官を兼務した。
*1 全国から兵員を集めていた近衛師団を除く。
*2 日華事変の頃まで、各師団は歩兵連隊4を基幹としていた。
*3 兵庫県を除く(なお、兵庫県の連隊区は神戸市ではなく姫路市に置かれていた)。
また、北海道はこの改正の対象外だった。