【連隊区司令部】(れんたいくしれいぶ)

旧日本陸軍に存在した地方組織。
徴兵・動員・召集・平時における在郷軍人の指導などを任務として、日本本土各地に設置されていた。
(現在の自衛隊では地方協力本部がこれに近しいといえる)

日本本土各地に駐屯する師団*1の管理区域(師管区?)を、各師団隷下の歩兵連隊所在地を基準に区分けし、おおむね連隊本部と同所、または近接した都市に置かれていた。

構成

連隊区司令部の人員は以下のような陣容であった。

連隊区司令官
指揮官。大正期以後は大佐*2階級にある将校が任じられていた。
業務上は歩兵連隊長と同格であったが、3,000人前後の将兵を率い、戦時には戦場へ出征する歩兵連隊長に比すれば格下のきらいは免れ得なかった。
通常、この職を経験した者はおおむねそれ以上の昇進はなく、よくて少将に昇進*3の上予備役に組み入れられていた。
また、司令官は連隊区管理区域内に在住する予備・後備役及び退役将校からなる「連隊区将校団」の団長も兼任していた。
部員
連隊区司令部所在地、もしくはその近辺の歩兵連隊に勤務する、中佐・少佐・大尉の階級にある将校が数名任ぜられていた。
業務内容が単純かつ継続的なデスクワークで、経験を必要とするものが多かったため、数年にわたって勤務するのが常だった。
連隊区司令官と同様、この配置になった者はそれ以上の昇進が極めて難しく、事実上、軍人としてのキャリアの終着点と位置づけられていた*4
書記等
5〜6名程度の下士官が配属され、司令官や部員の業務を補助する。
この職については、歩兵連隊以外の部隊(砲兵工兵輜重兵など)からも配属があり、一定の期間勤務した後原隊に復帰した。

業務内容

主な業務内容は以下の通りであった。

徴兵令・兵役法に基づく徴兵事務
毎年行われた兵役検査における対象者の合否は、連隊区司令官が最終決定するものとされていた。
在郷軍人の召集・動員に関する事務
現役時の最終階級が将官であった者は対象外だった。
在郷軍人に対する恩給・賜金・扶助金や賞典に関する事務
一定期間以上軍に勤務した者へ支給される恩給や、金鵄勲章のように生涯年金がつく賞典を受けた者に支給される年金に関する事務。
上述の「召集・動員」と同様、現役時の最終階級が将官であった者は対象外だった。
在郷将校団・在郷軍人会に関する事務
在郷軍人に対する軍事教練の支援や講話(国防問題、内外情勢等々)など。
学校における軍事教練に関する事務
中学校(当時は義務教育ではなく、男子のみが対象であった)以上の学校では、授業のカリキュラムとして「軍事教練」があり、生徒に対する指導のため「学校配属将校」と呼ばれる士官が派遣されていた。
国民に対する国防思想の普及に関する事務
軍人援護・職業補導に関する事務
入隊中の兵士の家族の生活保障や、除隊した兵士への再就職斡旋など。

大東亜戦争における連隊区司令部

大東亜戦争開戦前の昭和16年(1941年)、連隊区司令部の設置基準がそれまでの「各歩兵連隊の所在地基準」から、「各府県に1個連隊区」と改められ、連隊区司令部は府県庁所在地に置かれることとなった*5
その後、昭和20年(1945年)3月には、連合国軍の本土上陸侵攻に備えるべく、従来の連隊区司令部は各地域居住の在郷軍人を集めて編成した「地区特設警備隊」の上級司令部を兼ねることとなり、「所在地の防衛戦闘を担当する組織」として衣替えされた。
この時、新たに設置された連隊区司令官には、予備役の将官(少将もしくは中将)が任ぜられ、地区司令官を兼務した。

1945年8月の終戦に伴い、連隊区司令部は地区防衛及び兵員補充組織としての機能を失い、本土決戦に備えて日本本土に展開していた将兵の復員・帰郷に関する事務に従事した。
そして同年12月、陸軍省が「第一復員省」へ改編されたのに伴って廃止された。

なお、連隊区司令部が保有していた旧陸軍将兵の軍歴に関する資料は各都道府県に引き継がれている。


*1 全国から兵員を集めていた近衛師団を除く。
*2 それ以前は少佐クラスが一般的だった。
*3 中には退職直前に昇進する「名誉進級」もあった。
*4 「陸軍大学校へ入校・卒業できなかった」「現役中に病を患った」「青年・中堅将校時代に上官との良好な人間関係構築に失敗した」「勤務成績が悪かった」などの理由で、同期生より出世の遅れた将校が配属されることが多かったため。
*5 兵庫県を除く(なお、兵庫県の連隊区は神戸市ではなく姫路市に置かれていた)。
  また、北海道はこの改正の対象外だった。


トップ 新規 一覧 単語検索 最終更新ヘルプ   最終更新のRSS