【冷戦】(れいせん)

Cold War

第二次世界大戦後、ソビエト社会主義共和国連邦(現ロシア連邦)を中心とした共産主義国家(東側陣営)とアメリカ合衆国を中心とした資本主義国家(西側陣営)によるイデオロギーなどの対立である。

アメリカのバーナード・バルーク(政治家・企業家)が、実際に戦争は起こっていないが熾烈な軍拡競争や第三国における主導権争いなどにより極度の緊張状態が延々と続くこの状態をCold Warと表現したことから、以降それを直訳した冷戦という言葉が広まった。
その後、1989年に始まった東欧諸国の市民蜂起による民主化運動(東欧革命)をきっかけとして東側陣営が瓦解し、またなし崩し的にソビエトの連邦各国も分裂したため冷戦は終結した。

発端

イデオロギーの対立は第一次世界大戦中に起きたロシア革命までさかのぼることになるが、「超大国」の対立という構図は、1945年の第二次世界大戦末期に行われたヤルタ会談以降の体制である「ヤルタ体制」からはじまる。
このことから「冷戦」の始まりはヤルタ会談とされている。

ヤルタ会談ではドイツの分割や、ソ連の対日参戦、朝鮮半島分割、さらには千島列島や樺太のソ連による占領などが取り決められた。
ここから米英とソ連との間で相互不信が芽生え、欧州の戦後処理をめぐり、対立が徐々に大きくなっていった。
さらに1946年のチャーチルによる「鉄のカーテン演説」などで対立は顕在化し、本格的に冷戦の開始宣言が出されたとされる事象は1947年の「トルーマン・ドクトリン」やアメリカによるヨーロッパの復興政策である「マーシャル・プラン」とされている。
内戦下であったギリシャやトルコを援助するという「トルーマン・ドクトリン」は米ソの対立を明確にした。

そして連合国の占領下にあったドイツでは1948年〜1949年にかけて、米英仏の通貨改革に抗議したソ連が、米英仏が占領する西ドイツの「飛び地」・西ベルリン一帯を封鎖するという、いわゆる「ベルリン封鎖」が行われた。
この封鎖により物資や電気、水道、ガスなどは全く西ベルリンに行き届かなくなり、西ベルリン市民は「飢餓」の危機に瀕した。
アメリカは、ここで西ベルリンを放棄すればほかの西側諸国に危機感を与えかねないと考え、大規模な空輸作戦を実施。
この「ベルリン封鎖」は米英仏とソ連との間で一触即発の危機を迎えたが、封鎖開始から一年後に封鎖は解除された。
しかしこれにより、ドイツ分裂は避けられない事態になり、1949年に米英仏の占領地帯に「ドイツ連邦共和国」いわゆる「西ドイツ」が建国され、ソ連の占領地帯に「ドイツ民主共和国」いわゆる「東ドイツ」が建国され、ドイツは米ソ陣営にそれぞれ取り込まれた。

また同年にアメリカは西欧12カ国と「NATO?」北大西洋条約機構を成立させ、ソ連はこれに対抗し、1955年に東欧7カ国と「ワルシャワ条約機構」を成立させた。
これにより東西ヨーロッパは米ソ陣営に二分された。

朝鮮半島では南北朝鮮が北緯38度線を境に、米ソそれぞれに分割・占領され、南では親米国家である「大韓民国」(韓国)が成立し、北では「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が成立した。

1950年代

1950年6月、北朝鮮は武力による朝鮮統一を図り、北朝鮮軍が38度線を越境、朝鮮戦争(1950年開戦〜1953年休戦)が始まった。
この戦争は民族間の戦争から世界を巻き込む国際紛争に発展し、米ソの代理戦争となった。

このころ、アメリカの独占は1949年のソ連の原爆保有ににより崩れた。
それどころか、ソ連は原爆の威力をアップさせた水素爆弾を開発し、核の優位はアメリカからソ連に移った。

1953年のソ連指導者・スターリンの死去、朝鮮戦争の休戦、第1次インドシナ戦争の終結をむかえ、アメリカ側は緊張緩和を受け入れる姿勢を見せ、1955年に「ジュネーブ会談」が開かれた。
この緊張緩和は「雪解け」と呼ばれ、世界から歓迎された。

この頃、ソ連は宇宙開発にも着手し、1957年に世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功し、またロケットの技術を転用して、ICBMの実験に成功した。
これらのことは西側諸国に大きな衝撃を与え、いわゆる「スプートニク・ショック」が起きた。

1960年代

1961年、アメリカ大統領にジョン・F・ケネディが就任すると、アメリカはソ連に強硬姿勢を示し、ソ連指導者のニキータ・フルシチョフはこれに対抗し、いわゆる「ベルリンの壁」を構築した。
続いて、ソ連は数10Mt級の水爆実験を連続して行い、ソ連の優位を示した。
また、ソ連は1959年に共産革命が起きたキューバにミサイル基地を設け、対するケネディ大統領はミサイル搬入を阻止するために、キューバ海域を海上封鎖するという措置をとった。いわゆる「キューバ危機」である。
これにより米ソ間の核戦争寸前までにいたったが、ソ連の譲歩により、危機は収まった。

キューバ危機後、米ソは互いに歩み寄った。「デタント」の時代である。
これは東側陣営で中ソ間が対立し、西側陣営内でフランスのド・ゴール政権が独自の路線をとり始めたため*1である。
加えアメリカはベトナムにおいて「ベトコン」に手を焼き、米ソは冷戦の休戦を強いられた。

1970年代

1969年に西ドイツ首相に就任したヴィリー・ブラントは、東欧の共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開。
これにより1970年に東西ドイツ初の首脳会談を実現させ、ソ連とは同年に「ソ連・西ドイツ武力不行使条約」を結び、ポーランドとは国境承認条約を結んだ。
そして1972年には「東西ドイツ基本条約」を結び、東西ドイツは互いに国家として承認した。

これを受け、米ソ間でも1972年に、戦略兵器制限交渉いわゆる「SALT」の合意が成立し、アメリカは長い間対立していた中国とも同年のニクソン訪中により、1979年の国交回復につながった。

欧州では1975年にヘルシンキにおいて、東西欧州35カ国が集まり、「ヨーロッパ安全協力会議」が行われ、緊張緩和は最高潮に達した。

1980年代〜終結

1981年にロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任すると、1979年からアフガニスタンに侵攻していたソ連を非難、米ソ間は再び嫌悪になった。いわゆる「新冷戦」の時代である。
しかし、1982年にソ連指導者だったブレジネフが死去した後、1985年に指導者に就任したミハイル・ゴルバチョフは「ペレストロイカ」つまり改革路線を進め、また、国内外への情報公開(グラスノスチ)も進め、アフガンからも撤退した。
これに対し、アメリカも態度を軟化し、1987年に中距離核戦力全廃条約を調印した。
さらに1989年にジョージ・H・Wブッシュがアメリカ大統領に就任し、軍縮の動きを急速に進展していった。
同年、「東欧革命」が起こり、東欧の共産主義政権が崩壊し、地中海のマルタ島での「マルタ会談」で、冷戦終結の共同宣言が出され、冷戦は終結した。


*1 1966年にフランスはNATO?の軍事部門から脱退した。

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