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*&ruby(れいせん){【冷戦】}; [#o4255166]

Cold War.~
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[[第二次世界大戦]]終結以降、20世紀後半における世界情勢を端的に表現する言葉。~
アメリカの政治家・企業家であるバーナード・バルークの命名による。~
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世界全体が共産主義(東側)と資本主義(西側)の陣営に別れ、イデオロギーを軸として対立していた時代である。~
しかし、両軸の中心であったソビエト社会主義共和国連邦・アメリカ合衆国がそれぞれ[[国家総力戦]]に移る事はなかった。~
両陣営は政治的・[[スパイ]]的な[[浸透]]と係争地における[[限定戦争]]を繰り返したが、最後まで決定的な破局に至る事はなかった。

**発端 [#t6b9b058]

 バルトのシュテッティンからアドリアのトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。
 中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。
 
                          ―――ウィンストン・チャーチル

共産主義勢力はそもそもその政治的発端であるロシア革命の時代から極めて攻撃的・排他的な異端思想であった。~
しかしロシアから生じたソビエト連邦は動乱の20世紀を踏破し、[[第二次世界大戦]]を終える頃には超大国へと成長していた。~
このため、冷戦の始まりは[[第二次世界大戦]]後の秩序を規定する事となった[[ヤルタ会談]]と見るのが定説である。~
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[[ヤルタ会談]]ではドイツの東西分割・ソ連の対日参戦・朝鮮半島の南北分割、さらには千島列島や樺太のソ連による占領などが取り決められた。~
この交渉の過程で米英とソ連との間にはで相互不信が芽生え、欧州の戦後処理をめぐる対立関係が醸成されていった。~
この交渉の過程で米英とソ連との間に相互不信が芽生え、欧州の戦後処理をめぐる対立関係が醸成されていった。~
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1946年、英国首相の座から退いた[[ウィンストン・チャーチル]]はアメリカで上記のように「鉄のカーテン」に言及。~
翌年1947年にはアメリカのトルーマン大統領が共産主義封じ込め政策「トルーマン・[[ドクトリン]]」を展開。~
復興途上や[[内戦]]下にあった各国が二大陣営の陣取りゲームのゲーム盤と化し、ここに冷戦の構造が確定的になった。~
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1948年〜1949年、米英仏の通貨改革に抗議したソ連が、米英仏が占領する西ドイツの「飛び地」・西ベルリン一帯を封鎖。~
この「ベルリン封鎖」によってインフラが麻痺した西ベルリンの市民は飢餓に直面、アメリカによる緊急支援によってかろうじて命脈を繋いだ。~
ベルリン封鎖は1年で解除されたが、これによってドイツは東西分裂を避けられなくなった。~
1949年、米英仏の占領地帯が「''ドイツ連邦共和国''(西ドイツ)」、ソ連の占領地帯が「''ドイツ民主共和国''(東ドイツ)」と分断された。~
1949年、米英仏の占領地帯が「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」、ソ連の占領地帯が「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」と分断された。~
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また、1949年にアメリカは西欧12カ国と「[[北大西洋条約機構]]」(NATO)を設立。~
ソ連はこれに対抗し、1955年に東欧7カ国と「[[ワルシャワ条約機構]]」を設立した。~
この一連の流れで、東西ヨーロッパは思想的にも経済的にも軍事的にも米ソ陣営に二分された。~
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朝鮮半島では[[北緯38度線>38度線]]を境として分割・占領され、南は資本主義の「''大韓民国''」、北は共産主義の「''朝鮮民主主義人民共和国''」となった。
朝鮮半島では[[北緯38度線>38度線]]を境として分割・占領され、南は資本主義の「大韓民国」、北は共産主義の「朝鮮民主主義人民共和国」となった。

**1950年代 [#acdd08f2]
1950年6月、北朝鮮は武力による朝鮮半島統一を図って[[38度線]]を越境、[[朝鮮戦争]](1950年開戦〜1953年休戦)が始まった。~
1950年6月、北朝鮮は武力による朝鮮半島統一を図って[[38度線]]を越境、[[朝鮮戦争]](1950年開戦〜1953年休戦・公式には2024年現在に至るまで継続中)が始まった。~
この戦争は民族間の戦争から世界を巻き込む国際紛争に発展し、米ソ間の[[代理戦争]]となった。~

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このころ、アメリカの[[核>核兵器]]独占は1949年のソ連の[[原爆>原子爆弾]]保有により崩れた。~
それどころか、ソ連はアメリカに先んじて[[水素爆弾]]の開発に成功し、核の優位はアメリカからソ連に移った。

それどころか、ソ連はアメリカに先んじて[[水素爆弾]]の開発に成功し、核の優位はアメリカからソ連に移った。~
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1953年、ソ連の指導者スターリンの死去に伴って[[朝鮮戦争]]は休戦、[[第1次インドシナ戦争]]も終結。~
アメリカ側は緊張緩和を受け入れる姿勢を見せ、1955年に「ジュネーブ会談」が開かれた。~
この緊張緩和は「''雪解け''」と呼ばれ、世界から歓迎された。

この頃、ソ連は宇宙開発にも着手し、1957年に世界初の[[人工衛星]]「スプートニク1号」の打ち上げに成功。~
この緊張緩和は「雪解け」と呼ばれ、世界から歓迎された。~
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この頃、ソ連は宇宙開発にも着手し、1957年に世界初の[[人工衛星]]「[[スプートニク1号]]」の打ち上げに成功。~
このロケット技術は当然ながら軍事転用され、[[ICBM>大陸間弾道ミサイル]]の実験に成功した。~
これらのことは西側諸国に大きな衝撃を与え、いわゆる「スプートニク・ショック」が起きた。

**1960年代 [#aec11bc2]
1961年、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは就任早々にソ連への強硬姿勢を示す。~
ソ連指導者のニキータ・フルシチョフはこれに対抗し、いわゆる「ベルリンの壁」を構築した。~
また、ソ連は数十[[メガトン]]級の[[水爆>水素爆弾]]実験を連続して行い、ソ連の[[核>核兵器]]優位を示した。~

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1959年、共産革命が起きたキューバにソ連がミサイル基地を構築。~
対するケネディ大統領はミサイル搬入を阻止するためにキューバ海域を海上封鎖するという措置をとった。~
この「''[[キューバ危機]]''」は全面[[核戦争]]の危機として全世界を騒然とさせたが、ソ連側の譲歩により危機は回避された。
この「''[[キューバ危機]]''」は全面[[核戦争]]の危機として全世界を騒然とさせたが、ソ連側の譲歩により危機は回避された。~
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キューバ危機を経て、米ソ両陣営は明らかに[[国家総力戦]]を忌避、[[相互確証破壊]]を念頭におく「デタント」の時代が始まった。~
このデタントによって軍事的リスクが低減したため、両陣営ともに陣営内部での政争が活発化。紐帯が徐々に緩み始めた。~
東側陣営では中国とソ連との間で軋轢が生まれ、西側ではフランスが独自路線を取って[[NATO>北大西洋条約機構]]から軍事的に脱退している。~

キューバ危機を経て、米ソ両陣営は明らかに[[国家総力戦]]を忌避、[[相互確証破壊]]を念頭におく「''デタント''」の時代が始まった。~
東側陣営で中国とソ間との間で軋轢が生まれた一方、西側もフランスが独自路線を取って[[NATO>北大西洋条約機構]]から軍事的に脱退。~
両陣営の紐帯は徐々に緩み始めた。

**1970年代 [#c03bdf75]
1969年、西ドイツ首相ヴィリー・ブラントは、東欧の共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開。~
1970年には分割後始めて東西ドイツの首脳会談を実現し、「ソ連・西ドイツ武力不行使条約」を結ばれ、西ドイツとポーランドが国境承認条約を結んだ。~
1972年には「東西ドイツ基本条約」を結び、東西ドイツは互いに国家として承認した。

1972年には「東西ドイツ基本条約」を結び、東西ドイツは互いを国家として承認した。~
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これを受け、米ソ間でも1972年に、[[戦略兵器制限交渉]](SALT)の合意が成立。~
また、アメリカのニクソン大統領が訪中するなど外交交渉が活発化し、1979年に国交回復を果たした。~
また、アメリカのニクソン大統領が訪中するなど外交交渉が活発化し、1979年に米中の国交が回復した。~
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欧州では1975年、ヘルシンキに欧州東西35カ国が集まって「ヨーロッパ安全協力会議」が行わる。

欧州では1975年、ヘルシンキに欧州東西35カ国が集まって「ヨーロッパ安全協力会議」が行われた。~
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この一連の流れで、緊張緩和は最高潮に達した。

**1980年代〜終結 [#y8a5c0fc]
1981年、アメリカのロナルド・レーガン大統領はソ連のアフガニスタン侵攻をソ連を非難。~
米ソ両陣営は急速に緊張状態に戻り、一時期は「''新冷戦''」とも囁かれた。

しかし、1985年に就任したソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフは改革路線(ペレストロイカ)を推進。~
1981年、アメリカのロナルド・レーガン大統領はソ連のアフガニスタン侵攻を非難。~
これを契機に、米ソ両陣営は急速に緊張状態に戻り、一時期は「新冷戦」とも囁かれた。~
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しかし、1985年に就任したソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフは「ペレストロイカ(再構築)」と称して改革路線を推進。~
国内外への情報公開(グラスノスチ)も進め、アフガンからも[[撤退]]した。~
これに呼応してアメリカも態度を軟化させ、1987年に[[中距離核戦力全廃条約]]が調印された。~
さらに1989年、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュは軍縮を断行。緊張緩和を急速に進展させていった。~
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このペレストロイカは西側で高く評価された。~
しかし、ソビエト連邦の国家政策としては明らかな失政であり、ソビエト連邦そのものを崩壊に至らしめる直接要因になったとされる。~
あるいは、ソ連崩壊は純然たる財政破綻であり、ペレストロイカはソビエト政権の余命にさしたる影響を及ぼしていないという説もある。~
ソ連の崩壊は不可避だったと考えるなら、全面核戦争などの破滅的事態を引き起こす事なくソビエトを解体できたとも言える。

>結果論を述べれば、ゴルバチョフ政権がソビエトを存続させるためには、破綻寸前だった財政を開発独裁的に再建する事が必要だった。~
しかし、ゴルバチョフは民主化・自由化という「内外へのリップサービス」のためにソビエトに残されていた貴重な政治的資源を消費。~
性急な改革・野放図な自由化は、やがて民族間対立や共産党内部の政争を活発化させ、共産主義一党独裁による統制を急激に分離させていった。

そして1989年。東欧諸国で市民の蜂起による民主化運動(東欧革命)が発生。~
この流れはソビエト本国にまで波及するに至り、共産主義諸国の政権が次々と自壊し、東側陣営は瓦解。~

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これに伴い、地中海のマルタ島での「マルタ会談」で米ソ両陣営が共同で「冷戦の終結」を宣言するに至った。

**残滓 [#r69ff69e]
イデオロギーとしての共産主義は未だ滅びておらず、アジアを中心に今なお根強い影響力を保持している。~
しかし共産主義は国際的影響力と思想の統制を喪って久しく、その実践者は散逸しつつある。

しかし共産主義は国際的影響力と思想の統制を喪って久しく、その実践者は散逸しつつある。~
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残存する共産主義国家は全てソビエトからの教導(と物質的援助)を喪ったため、路線転換を余儀なくされた。~
旧共産圏のみでの再結集は事実上不可能であったため、程度の差こそあれ、全ての国家が資本主義へ迎合している。~
共産主義に基づいて管理される自由市場、という新たな経済制度を採用する事の是非は未だ定かでない。

共産主義に基づいて管理される自由市場、という新たな経済制度を採用する事の是非は未だ定かでない。~
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一方、旧西側陣営においても、共産圏の崩壊は大きな社会的波紋を広げている。~
冷戦時代、資本主義国家の多くは「貧困層に共産主義の[[第五列]]が浸透する」危険性を考慮し、社会福祉に多大な労力を払っていた。~
しかし冷戦終結後、その必要は薄れたと考えられ、グローバルな経済競争を念頭に置く「新自由主義」が勢力を伸ばしている。~
この新自由主義に対しては「貧富の格差を拡大させた」とする批判が多く、その票田の多くが共産主義的な勢力に吸収されている。
この新自由主義に対しては「貧富の格差を拡大させた」とする批判が多く、その票田の多くが共産主義的な勢力に吸収されている。~
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また、東西両陣営が影響力を投資しあうグレートゲームの盤面と化していた「第三世界」は、冷戦終結と共に急激に衰亡し始めた。~
なんとなれば、そうした国々は国家運営の多くを両陣営が投じた援助に依存していたためである。~
この援助は「第三次世界大戦」での[[戦略]]的優位を得るためのものであったため、必然、冷戦終結を機に第三世界への援助は退潮。~
取り残された国の多くが政治的均衡を喪失し、経済危機・治安悪化・[[内戦]]などの危難に沈んでいった。~
そうした国々のいくつかは制御不能な[[テロリスト]]を輩出するようになり、それはやがて国際化し、新たな脅威となっていく。


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