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【廃兵院】 †
戦傷などで後遺症を負った兵士のための福利厚生を行う施設。
主に退役後の職業訓練、恩給の支給、死者の遺族に対する補償などを行う。
その性質上、病院を運営母体とする場合が多い。
現代においては傷病兵には生涯に渡って手厚い保護がなされるべきだ、とされる。
しかし現実問題として予算も人的資源も有限であり、十全な処理を行えている事例はまれである。
重度の身体的障害・戦争神経症・殉職者に対しては報いるにも限界がある。
また、兵士の福利厚生という概念は基本的に徴兵制以降の概念である。
それ以前の戦争においては、特権的な貴族階級にせよ、農民兵にせよ、戦傷は自己責任、家族の負担とされた。
負傷して帰ってきた者の扱いは故郷で待つ家族や親戚の経済力に依存したし、実際、大抵はそれで事足りた。
働けなくなるほどの戦傷を負った男を生かしておく意志があったなら、の話だが。
その種の負担から殺人に至るような案件がなかったはずもないのだが、この点について十分な史料はない。
しかし、歴史とともに医療・政治・経済が発達することで、人間1人の維持費は上昇傾向にある。
法整備が略式の処刑による究極的解決を不可能にした事もあり、戦傷者にまつわる負担全てを家庭で支えるのはきわめて困難になっている。
そうした不満は紛争やクーデターの引き金にもなり得る*1ため、国家はこの被害を福利厚生で補填する必要が生じている。
日本における廃兵院 †
日本における廃兵院は、1904〜1905年の日露戦争を契機に創設された。
この近代陸軍による大規模な戦闘の結果、戦後までに帰還した負傷兵はのべ数万人に及び、なかでも失明・四肢の欠損など重度の傷害で生活が困難になった兵士の処遇は重大な問題となった。
そこで1906年、政府は「廃兵院法」を公布・施行。フランスの廃兵院等をモデルに整備に乗り出した。
当初は、東京にあった陸軍病院の一部施設に重度の負傷兵をまとめて収容することで対応していたが、後に単独の施設となり、全国各地に設置されるようになった。
その後、大正12年に陸軍の管理下から外されて内務省に、昭和13年には新設された厚生省(現:厚生労働省)に移管、外局として設立された「傷兵保護院*2」の所管となった。
また、この間の昭和9年に「廃兵院」が「傷兵院」と改称されている*3。
昭和20年の大東亜戦争終戦と軍の解体に伴い、各地にあった傷兵院は国立病院・国立療養所に改編され、現在は「独立行政法人国立病院機構」傘下の医療施設として運営されている。
関連:乃木希典
*1 戦争神経症の項にもあるように、きちんとしたケアがなされていない負傷者の存在が明るみに出れば、反政府勢力に紛争の動機を与えてしまうことになる。
*2 翌年に「軍事保護院」と改称。
*3 「廃兵」という言葉のマイナスイメージを払拭する目的があったという。