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*&ruby(のぎまれすけ){【乃木希典】};
(1849〜1912)旧日本陸軍大将。伯爵。~
1871年、23歳の若さで陸軍少佐として入隊する。1877年には[[西南戦争]]にて大隊長として従軍するも、部隊を無駄に分散し敗退、軍旗を奪われると言う失態をする。~
しかし、その際に責任を取って腹を切ろうとするも制止され、逆にこの潔さが評価された。
*&ruby(のぎまれすけ){【乃木希典】}; [#gef52d52]
旧日本陸軍大将。伯爵。(1847生〜1912没)~
1871年、23歳の若さで陸軍少佐として入隊する。~
1877年の西南戦争にて大隊長として従軍するも、部隊を無駄に分散し敗退、更に敵に[[軍旗]]を奪われると言う失態を犯す。~
しかし、その際に責任を取って腹を切ろうとするも制止され、逆にこの潔さが評価された。~
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1894年の日清戦争では、果敢な突撃(無謀とも言う)により旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。~
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そして1904年、日露戦争の旅順攻略戦では、日清戦争での戦功を買われて攻略軍司令官に抜擢された。~
戦前「3日で落とす」と豪語していたが、[[ロシア軍]]は非常に堅固な要塞を築いており、150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の犠牲者を出すも攻略できずにいた。~
翌年、結局援軍として参戦した[[参謀]]・児玉源太郎の作戦により旅順は陥落するが、児玉は親友であった乃木にその功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、海軍の東郷平八郎と並び世界的に名を知らしめることになる。~
この後、乃木は退役し明治天皇の要請により、学習院の院長に赴任する。~
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1912年、明治天皇が崩御した際に妻とともに切腹し殉死する。~
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死後、([[太平洋戦争]]の終結までは)軍神として崇められたが、~
「実際のところは銃剣突撃しか知らぬ『無能な』将軍」~
という評価もあり、小説家の司馬遼太郎氏には、
>軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんな馬鹿な戦争指導したのか、~
いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。~
(週刊読売1968.7/21号より抜粋)

1892年[[日清戦争]]では猛将として果敢な突撃(無謀とも言う)によって旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。
とまで言われている。~
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だが、乃木がとった戦術は当時の要塞攻略戦としては極めて一般的であり、その後の[[第一次世界大戦]]でも普通に行われている。~
さらに乃木が新しく行った「[[塹壕]]には塹壕で対抗」という戦術は、第一次世界大戦にて広く行われることとなった。((最終的には西ヨーロッパ全域に及ぶ長大な塹壕線が構築されて長期戦となり、膨大な死傷者を生み出す原因にもなった。[[塹壕戦]]の項目も参照。))

1904年[[日露戦争]]の旅順攻略戦では、[[日清戦争]]でのそれを買われ最高司令官に抜擢され、3日で落とすと豪語するも、過去のそれとは違い[[ロシア軍]]は堅固な要塞を築いており150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の犠牲者を出すも未だ落とせずにいた。~
翌年、結局援軍として参戦した[[参謀]]の[[児玉源太郎]]の作戦により旅順は陥落するが、[[児玉源太郎]]は親友であった乃木にその功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、海軍の[[東郷平八郎]]と並び世界的に名を知らしめることになる。~
この後、乃木は退役し明治天皇の要請により、学習院の院長に赴任する。

1912年乃木は明治天皇の崩御した際に妻とともに切腹し殉死する。

死後も軍神として崇められるが、実際のところの彼は[[銃剣突撃]]しか知らぬ無能な将軍であり、小説家司馬遼太郎氏には、
 軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんな馬鹿な戦争指導したのか、
 いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。
 週刊読売1968.7/21号より抜粋
とまで言われている。


だが、当時の要塞攻略作戦としては乃木の戦術は極めて一般的であり、その後の第一次世界大戦でも普通に行われている。さらに乃木が新しく行った「塹壕には塹壕で対抗」という戦術は第一次世界大戦にて広く行われることとなった。


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