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*&ruby(のぎまれすけ){【乃木希典】}; [#gef52d52]
日本の江戸時代末期〜明治時代に活躍した武士・[[陸軍]]軍人。(1847生〜1912没)~
長府藩(山口県)出身。~
生涯最終の[[階級]]・位階・勲等・功級・爵位は陸軍[[大将]]・従二位((没後、1916年の裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際し、正二位が追贈された。))・勲一等・[[功一級>金鵄勲章]]・伯爵。~
生涯最終の[[階級]]・位階・勲等・功級・爵位は[[陸軍]][[大将]]・従二位((没後、1916年の裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際し、正二位が追贈された。))・[[勲一等>勲章]]・[[功一級>金鵄勲章]]・伯爵。~
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長府藩士として戊辰戦争に従軍した後、1871年に明治新政府軍に参加。陸軍少佐に任じられる。~
長府藩士として戊辰戦争((1868年〜1869年にかけて、徳川将軍家を中心とする旧幕府軍と薩摩・長州藩を筆頭とする明治政府軍との間に起きた[[内戦]]。))に従軍した後、1871年に明治新政府軍に参加。陸軍少佐に任じられる。~
1877年の西南戦争にて大隊長として従軍するも、部隊を無駄に分散し敗退、更に敵に[[軍旗]]を奪われると言う失態を犯す。~
しかし、その際に責任を取って腹を切ろうとするも制止され、逆にこの潔さが評価された。~
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1894年の日清戦争では、果敢な突撃(無謀とも言う)により旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。~
1894年の日清戦争では、果敢な[[突撃]](無謀とも言う)により旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。~
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そして、1904年に勃発した[[日露戦争]]では、開戦当初は[[予備役]]にあった((日清戦終戦後に台湾総督に任命されたが、その際の失政の責任を取るため現役を退いていた。))が、日清戦争での戦功を買われて現役復帰、旅順攻略軍司令官に抜擢された。~
戦前、(日清戦争での経験から)「3日で落とす」と豪語していたが、[[ロシア軍]]は非常に堅固な要塞を築いており、150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の犠牲者を出すも攻略できずにいた。((この一連の戦いで成人していた二人の子息を失い、後に養子を迎えることなく自決したため、乃木伯爵家は断絶することとなる。))~
翌年、結局援軍として参戦した[[参謀]]・[[児玉源太郎]]の作戦により旅順は陥落するが、児玉は親友であった乃木にその功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、海軍の[[東郷平八郎]]と並び世界的に名を知らしめたとされる。(実際の話は別項に譲る。)~
戦前、日清戦争での経験から「3日で落とす」と豪語するも、堅固な旅順[[要塞]]を前にして悪戦苦闘。~
150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の死傷者を出すも攻略できずにいた((この一連の戦いで成人していた二人の子息を失い、後に養子を迎えることなく自決したため、乃木伯爵家は断絶することとなる。))。~
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乃木は203高地陥落後、高名な「爾霊山の詩」を詠んだ。~
「爾霊山」は203という標高を「爾の霊の山」と当て字にしたもので、203高地で命を落とした霊に鎮魂の思いをこめて、この3字でよびかけた。
>爾靈山嶮豈攀難,(&ruby(にれいさん){爾霊山}; &ruby(けん){嶮};なれども &ruby(あ){豈};に&ruby(よ){攀};じ難からんや)~
男子功名期克艱。(男子の功名 &ruby(こくかん){克艱};に期す)~
銕血覆山山形改,(鐵血 山を覆ひて &ruby(さんけい){山形}; 改まる)~
萬人齊仰爾靈山。(&ruby(ばんにん){萬人}; &ruby(ひと){齊};しく&ruby(あ){仰};ふぐ &ruby(にれいさん){爾霊山};)~

終戦後、乃木は軍を退官し、明治天皇の要請((裕仁親王の教育係となることを要請された。))により学習院の院長に赴任。~
また、この戦争において発生した重度の戦傷者を介護する[[廃兵院]]が設立されると、積極的に慰問を行い、私財を投じて補装具(義手((自ら設計に参加し、年金を担保に製作・配布した「乃木式義手」があった。))・義足)を提供した。~
翌年、援軍として参戦した[[参謀]]・[[児玉源太郎]]の作戦により旅順[[要塞]]は陥落する。~
児玉は親友であった乃木に功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、[[海軍]]の[[東郷平八郎]]と並び世界的に名を知らしめたとされる。~
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1912年、明治天皇が崩御した際に妻とともに切腹し殉死する。~
終戦後は退官し、明治天皇から裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係となるようにと要請を受け、学習院の院長に赴任。~
また、日露戦争の戦傷者を介護する[[廃兵院]]の設立後には積極的に慰問を行い、私財を投じて義手・義足などを提供。~
特に義手については自ら設計に参加し、自らの年金を担保に製作・配布した「乃木式義手」でも名を残している。~
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1912年、明治天皇が崩御した際に妻とともに切腹して殉死。享年64歳(満62歳)。~

**没後の評価 [#m2c95818]
死後、([[大東亜戦争]]の終結までは)「軍神」として広く国民の尊敬の対象となっていたが、~
「実際のところは[[銃剣]]突撃しか知らぬ『無能な』将軍」~
という評価もあり、小説家の司馬遼太郎氏((氏自身も[[大東亜戦争]]末期、陸軍の[[機甲科>機甲部隊]]将校として従軍経験があった。))には、

 軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんな馬鹿な戦争指導したのか、
 いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。(週刊読売1968.7/21号より)
とまで言われている。~
 いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。
                          ―――司馬遼太郎、週刊読売1968.7/21号

乃木希典は死後、国家神道における「軍神」として遇され、英雄としての名声を博した。~
しかし後年、特に[[太平洋戦争]]後の研究においては必ずしも好意的な評価を受けていない。~
「[[突撃]]しか知らない愚将」と評される事も多々ある。~
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しかし実際には、第一次攻撃における1万5千名余りの死傷者を出しての失敗は、軍部が把握していた目標についての情報が日清戦争時のものであり、~
最新の情報が第三軍に与えられていなかったことに起因するものであり、彼に責めは無い。~
寧ろ、防御が強化されていた事を把握していなかった軍部こそ責められるべきであろう。~
当時の史料を解析する限り、[[士気]]統制や[[作戦]]指導において、特筆に値するような無能・錯誤の兆候は見受けられない。~
結果論として失敗に終わった行動は多々見受けられるが、基本的な行動方針は柔軟で合理的なものであるとの評価が通説である。~
政治的制約、[[諜報>スパイ]]的支援の不足、[[海軍]]側の窮状など、失敗とみなされるべき決断の多くは権限の範囲外の外的事情に誘因されている。~
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また、203高地攻略は海軍からの要望であり、彼はそれを拒絶し、一貫して東北正面からの攻撃を命じている。~
これは兵站の確保が容易で、地形的に西側からの逆襲に対処しやすく、最高所の望台を奪取すれば、要塞の死命を制することが出来るというメリットがあり、理に適ったものである。~
そして、第二次攻撃からは、塹壕を掘って接近し、砲撃や工兵の爆破によって突撃する正攻法に切り替えて、犠牲者を最小限に抑えるなど、彼の作戦指導は柔軟だった。~
「東北正面からの正攻法こそ有利」が第三軍司令部の見解であり、満州軍総司令部もそれを支持していた。東北正面攻撃を棚上げにしてまでの203高地攻略は、~
明治天皇の苦衷と[[連合艦隊]]司令部の窮状を知っての苦渋の決断だったのである。これは、総司令部より派遣された福島安正にも説明し、総司令部からも許可を得ている。~
なお、児玉はこれに伴い、野砲重砲連隊の一部の配置換えと砲撃目標を203高地後方の砲台に変更すること((これこそが、児玉の功績である。))をアドバイスしたにとどまる。~
旅順攻略は、一貫して海軍の事情と情報不足によって制約されていたが、乃木はそれに柔軟に対応して戦ってきたのである。~
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奉天においては((各軍司令官による状況戦術に委ねられている。))「第三軍の迂回ありきの作戦」であり、重要な立ち回り得であったが、乃木は独断で二回転進している。~
最初の転進は第二軍との距離を広げず、連携しての攻め込みを企図したものであり、二回目は、「これより先の奉天西方にきわめて堅固な陣地が築かれている。」との情報を得たため、堡塁を攻めて時間を費やすよりも当初目指した大包囲策により、退路を断つ方が良策との瞬時の判断であり、柔軟且つ果断な判断であった。~
以上のことから、彼は決して愚将ではなく、智将と呼ぶに相応しい武人である。
酷評の主な原因は、彼の言動がいささかならずスキャンダラスである事、昭和以降の世代との思想的断絶がある事である。~
また、著名な歴史小説の題材となったため、その作家の歴史観((特に歴史作家・司馬遼太郎は巨匠として名声を博した一方、偏向した歴史観について批判の絶えない作家であった。))に巨大な影響を受けている面が否めない。


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