【乃木希典】(のぎまれすけ)

日本の江戸時代末期〜明治時代に活躍した武士・陸軍軍人。(1847生〜1912没)
長府藩(山口県)出身。
生涯最終の階級・位階・勲等・功級・爵位は陸軍大将・従二位*1・勲一等・功一級・伯爵。

長府藩士として戊辰戦争に従軍した後、1871年に明治新政府軍に参加。陸軍少佐に任じられる。
1877年の西南戦争にて大隊長として従軍するも、部隊を無駄に分散し敗退、更に敵に軍旗を奪われると言う失態を犯す。
しかし、その際に責任を取って腹を切ろうとするも制止され、逆にこの潔さが評価された。

1894年の日清戦争では、果敢な突撃(無謀とも言う)により旅順をたった1日で落とすという戦功を上げる。

そして、1904年に勃発した日露戦争では、開戦当初は予備役にあった*2が、日清戦争での戦功を買われて現役復帰、旅順攻略軍司令官に抜擢された。
戦前、(日清戦争での経験から)「3日で落とす」と豪語していたが、ロシア軍は非常に堅固な要塞を築いており、150日間にも及ぶ戦闘と6万人以上の犠牲者を出すも攻略できずにいた。*3
翌年、結局援軍として参戦した参謀・児玉源太郎の作戦により旅順は陥落するが、児玉は親友であった乃木にその功を譲り、乃木は旅順を落とした名将として、海軍の東郷平八郎と並び世界的に名を知らしめることになる。

終戦後、乃木は軍を退官し、明治天皇の要請*4により学習院の院長に赴任。
また、この戦争において発生した重度の戦傷者を介護する廃兵院が設立されると、積極的に慰問を行い、私財を投じて補装具(義手*5・義足)を提供した。

1912年、明治天皇が崩御した際に妻とともに切腹し殉死する。

死後、(大東亜戦争の終結までは)軍神として崇められたが、
「実際のところは銃剣突撃しか知らぬ『無能な』将軍」
という評価もあり、小説家の司馬遼太郎氏*6には、

軍人というのが戦争の専門家であるとすれば、なぜこんな馬鹿な戦争指導したのか、
いま考えても薄気味悪いほどの無能さである。
(週刊読売1968.7/21号より抜粋)

とまで言われている。

だが、乃木がとった戦術は当時の要塞攻略戦としては極めて一般的であり、その後の第一次世界大戦でも普通に行われている。
さらに乃木が新しく行った「塹壕には塹壕で対抗」という戦術は、第一次世界大戦にて広く行われることとなった。*7


*1 没後、1916年の裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際し、正二位が追贈された。
*2 日清戦終戦後に台湾総督に任命されたが、その際の失政の責任を取るため現役を退いていた。
*3 この戦いで成人していた二人の子息を失い、後に養子を迎えることなく自決したため、乃木伯爵家は断絶することとなる。
*4 裕仁親王の教育係となることを要請された。
*5 自ら設計に参加し、年金を担保に製作・配布した「乃木式義手」があった。
*6 氏自身も大東亜戦争末期、機甲科将校として従軍経験があった。
*7 最終的には西ヨーロッパ全域に及ぶ長大な塹壕線が構築されて長期戦となり、膨大な死傷者を生み出す原因にもなった。塹壕戦の項目も参照。

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