【大淀】 †
- 大日本帝国海軍軽巡洋艦「大淀」。
連合艦隊最後の「旗艦」を務めた艦でもある。
本艦は元々、大正時代に14隻もの多数が建造された「5500トン級」軽巡洋艦の老朽化に伴う代替艦として計画されたものである。
この計画では、日本海軍における軽巡洋艦の任務とされていた「水雷戦隊旗艦(駆逐艦部隊の指揮を執りつつ、自らも敵艦隊に魚雷を叩き込む)」「潜水戦隊旗艦(搭載した水上偵察機により、潜水艦に索敵情報を伝達する)」に特化された艦が建造されることになったが、本艦は後者のグループとして開発されることになった。*1
そのため、新開発の高速偵察機「紫雲」を数機搭載し、これを大型のカタパルトで連続発進させる機能が備えられ、また、潜水艦へ索敵情報を伝達するために強力な通信機能が搭載されていた。
しかし、その「紫雲」の開発が結局失敗に終わり、また、ネームシップの「大淀」が就役した頃には、本来の任務として想定された「潜水艦による敵主力艦隊への襲撃戦」も行われなかったため、就役したもののこれといった任務が与えられず、「遊び駒」になってしまっていた。*2
その頃、連合艦隊の「旗艦」にはその当時で最良の戦艦(「長門」→「大和」→「武蔵」)があてられていたが、元々厳しかった燃料事情の更なる悪化と、個体戦闘能力の高い大型戦艦を司令部任務にあてることの問題点を解決するため、通信能力の高い本艦が着目され、1944年に連合艦隊司令部機能を搭載する改装工事が行われた。
この改装では、「紫雲」を搭載するために作られた大型の航空機格納庫が司令部スペースにあてられ、カタパルトも通常型のものに交換された(搭載機は、既に実用化されていた「瑞雲」2機に変更)。
しかし、同年9月には艦隊司令部そのものが陸に上がってしまい旗艦任務も解除。
その後、レイテ湾海戦を経て終戦直前まで生き残っていたが、1945年7月に瀬戸内海で米艦載機の空襲により大破、行動不能状態で終戦を迎えた。
- 海上自衛隊護衛艦「おおよど」
(JDS Oyodo DE-231)
1980年代に計画された地方隊向けの小型護衛艦である「あぶくま」級の3番艦として1991年に就役。
基準排水量2000トンと小振りながらも、アスロックやCIWSなどの強力な兵装が搭載され、同時期に整備されていた「はつゆき」「あさぎり」級に匹敵する戦闘力を備えている。
現在は佐世保地方隊隷下の第26護衛隊に属し、九州西方及び南西諸島周辺の警備任務に従事している。
前者のグループは「阿賀野」級として4隻が建造された
姉妹艦「仁淀」は太平洋戦争開戦前にキャンセルされている