【大山巌】(おおやまいわお)

日本の江戸時代末期〜明治時代に活躍した武士・陸軍軍人。(1842生〜1916没)
生涯最終の階級・位階・勲等は元帥陸軍大将、従一位、大勲位功一級、子爵。
日本陸軍発足期から日清戦争を経て、日露戦争では満州軍総司令官として前線の指揮を執った。

生誕〜明治維新

1842(天保13)年11月12日、大山は薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士大山彦八綱昌の次男として生まれた*1。幼名は岩次郎。
同藩士の有馬新七らに影響され、尊攘派に参加。

そして1862(文久2)年、大山が19歳のとき、島津久光の上洛に際し、有馬新七や西郷隆盛の弟である西郷従道らとともに京都で尊攘派と合流。
旅館・寺田屋で謀議を行っていたところ、いわゆる「寺田屋事件」に遭遇。
藩の公武合体派に鎮圧され、大山は謹慎処分となる。

謹慎後、「薩英戦争」に従軍し、西欧列強の強大な軍事力に衝撃を受け、のちに江戸で幕臣の江川太郎左衛門のもとで砲術を学び、免許皆伝を受けた。

「戊辰戦争」では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争など各地を転戦した。
砲術研究をもとに、オランダ製の曲射砲「12ドイム臼砲」やフランスの山砲「四斤山砲」の改良を行い、12ドイム臼砲を基に、自ら設計した「弥助砲」を開発。
会津戦争ではこれを若松城に向けて撃ち込み、勝利に貢献した。

陸軍軍人、大山巌

明治維新後の1869(明治2)年、大山は渡欧して、観戦武官として普仏戦争などを視察。
そして1870(明治3)年から1873(明治6)年の3年間はジュネーヴに留学して軍事学などを学び、その知識のもと日本陸軍の創設にあたる。
帰国後の1877(明治10)年、相次ぐ士族反乱で最大規模かつ最後となった「西南戦争」において、大山は別働第一旅団司令官として出征、自らの従兄である西郷隆盛率いる士族軍と戦うことになった。

1885(明治18)年、それまでの「太政官」制度に代わって内閣制度が導入され、初めて発足した第一次伊藤博文内閣では初代陸軍大臣に就任し、以後、陸軍では順調に栄達。
最終的には陸軍において山縣有朋とならぶ大実力者となった。

1894(明治27)年に日清戦争がおこると、陸軍大将・第二軍司令官として出征。
旅順や威海衛を攻略し、日本軍勝利に貢献。
日清戦争後、1898(明治32)年に大山は元帥陸軍大将となり、翌年には参謀総長に就任した。

日露戦争〜晩年

1904(明治37)年、日露戦争がおこると、大山は満州軍総司令官に就任。
大山は積極的に自ら指揮するということはあまりせず「任せた以上は口出しせず、責任は自らが取る」という姿勢のもと、児玉源太郎ら部下を信頼し、全面的に任せた*2

日露戦争後、大山は元老、内大臣などを歴任したが、自身には政治的野心というものはなく、晩年は愛妻家で子煩悩な父親として、悠々自適に過ごした。
また、東京の邸宅のほか、沼津や那須に別邸を所有、とくに那須の別邸を愛し、そこで農業に打ち込むようになった。

1916(大正5)年、大山は内大臣として、大正天皇とともに陸軍特別大演習を参観したが、その帰途胃病で倒れ、胆のう炎を併発。
そして12月10日、75歳で死去した*3
大山邸には山縣有朋や寺内正毅など政府や軍部の幹部が臨終を見舞うために訪問した。


*1 大山綱昌は西郷隆盛の父である西郷吉兵衛の実弟にあたり、大山巌自身、西郷隆盛の従弟にあたる。
*2 後年、この姿勢は「作戦は参謀に任せ、自らは『高邁な人格』を以って部下を統率する――『指揮官のあるべき姿』」とされたが、実際にはその参謀将校が指揮官の名の下、実質的に部隊の実権を握ってしまう事象が多発したという。
*3 大山は意識朦朧の中「兄さぁ」(西郷隆盛のこと)とうわごとを言っていたという。

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