• 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*&ruby(みかさ){【三笠】}; [#y3ba8c24]

明治時代中期に英国で建造され、[[日露戦争]]で活躍した[[日本海軍>日本軍]]の[[前ド級]][[戦艦]]。~
姉妹艦に[[敷島]]、朝日、初瀬がある。~
明治時代中期に[[日本海軍>日本軍]]がイギリスから購入した[[前ド級]][[戦艦]]。~
姉妹艦に[[敷島]]、[[朝日]]、初瀬がある。~
~
後述のとおり、[[日露戦争]]で[[連合艦隊]][[旗艦]]として華々しい戦果を挙げたことから、英国海軍の「ヴィクトリー」、[[アメリカ海軍]]の「コンスティチューション」と並んで「[[世界三大記念艦]]」とも呼ばれている艦であり、現在は神奈川県横須賀市の[[三笠公園]]に保存されている。~
また、2019年現在、日本海軍の戦闘艦艇及び全世界の[[前ド級]]戦艦としては唯一の現存艦でもある((これ以外に海軍に籍があった艦船で現存しているのは、東京・お台場の「船の科学館」で展示保存されている「[[宗谷>宗谷(巡視船)]]」(当時は[[運送艦>輸送艦]]。後に[[海上保安庁]]巡視船・初代南極観測船)と横浜港に繋留保存されている客船「氷川丸」(当時は特設病院船)のみである。))。~
~
参考:記念艦三笠公式webサイト(公益財団法人三笠保存会)~
http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/ ~
[[日露戦争]]で[[連合艦隊]][[旗艦]]として華々しい戦果を挙げた事から[[退役>用途廃棄]]後も記念艦となり、現在も神奈川県横須賀市の三笠公園に保存されている。~

>保存を行っている公益財団法人「三笠保存会」は、本艦を指して[[世界三大記念艦]]の一角と称している。

**建造の経緯 [#sd5b362e]
当時、中国大陸・朝鮮半島の支配権を巡ってロシアと対立していた日本政府は、強力なロシア艦隊に対抗すべく、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる「六六艦隊」という艦隊整備計画を策定。~
この一環である[[敷島級>敷島]][[戦艦]]の4番艦として、英国に発注・建造されたのが同艦である。~
当時の日本は、中国大陸・朝鮮半島の[[植民地]]利権を巡って(あるいは単に南下政策が[[戦略]]上の国是である)ロシアと対峙していた。~
このため、日本海軍はロシア[[艦隊]]への対抗を目的として、[[戦艦]]6隻・[[装甲巡洋艦>巡洋艦]]6隻からなる「六六艦隊」という[[艦隊]]整備計画を策定。~
この一環である[[敷島級>敷島]][[戦艦]]の4番艦として、イギリスに発注・建造されたのが同艦である。~
~
本艦の設計・建造に当たっては、当時最新鋭の造艦技術が積極的に取り入れられた((当時の英国は、このように海外から受注した艦艇を新しい造艦技術のテストベッドとして用いることが多かった。))が、特に防御甲板の素材には、ドイツのクルップ社が開発した鋼鉄とニッケルをベースとした特殊合金「クルップ鋼」を採用、同時期に建造された他国の戦艦と比べて高い[[装甲]]防御力を得ることとなった。~
また、本艦を含む「敷島」級以降の日本戦艦は、艦幅の増大によりスエズ運河の通過が不可能となったが、このことにより、ロシア艦隊は本艦に対抗できる有力な戦闘艦をアフリカ大陸の喜望峰周りで回航させざるを得なくなった。~
これにより、(日英同盟が結ばれていた当時の情勢下で)ロシアに対して[[戦略]]的アドバンテージを得ることもできた((当時、スエズ運河は英国の支配下にあり、ここを通過しようとすると英国の監視・妨害を受けることを余儀なくされる。))。~
建造に当たっては当時最新鋭の(実験的で信頼性の低い)造艦技術が積極的に取り入れられた。~
特に[[装甲]]素材には、ドイツのクルップ社が開発した特殊合金「クルップ鋼」を採用、同時期の[[戦艦]]に比して高い[[装甲]]防御力を得ることとなった。~
~
また、本艦を含む「敷島」級以降の日本戦艦は艦幅が広く、当時のスエズ運河を通過できない設計だった。~

>これにより、ロシア海軍も対日戦を想定して艦幅の広い[[戦艦]]を建造したため、スエズ運河を迂回して喜望峰周りでの回航を余儀なくされた。~
これがイギリス当局の妨害工作(意図的に艦幅を広げてスエズ運河を通れなくした)なのか、単に性能要件上の理由で艦幅が広くなりすぎたのかは定かでない。

**戦歴 [#f65f894c]
1901年、三笠は本籍地を[[舞鶴鎮守府>鎮守府]]と指定され、1902年3月に竣工した。~
直ちに日本へ向け出港し、5月に横須賀に到着。その後整備を受け、7月に本籍地(母港)の舞鶴に到着した。~
1901年、三笠は本籍地を舞鶴[[鎮守府]]と指定され、1902年3月に竣工。~
直ちに日本へ向け出港し、5月に横須賀に到着。その後整備を受け、7月に舞鶴に到着した。~
11月に三笠は[[常備艦隊]][[旗艦]]となった。~
~
11月に三笠は[[常備艦隊]]旗艦となり、1903年12月に日露間での戦争が押し迫った情勢に際し[[連合艦隊]]が8年ぶりに編成され((当時、[[連合艦隊]]は常設の組織ではなく、戦時に臨時編制される組織であった。))、三笠は連合艦隊旗艦・第一艦隊[[旗艦]](司令長官:[[東郷平八郎]])となった。~
1904年2月6日に[[日露戦争]]が始まるとそのまま連合艦隊旗艦として加わり、2月の旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、8月の黄海海戦に参加した。~
この際三笠率いる連合艦隊はロシア旅順艦隊に打撃を与えたが、三笠も後部砲塔が破壊されるなど損害を受けた。~
1903年12月、日露間での戦争が確定的となったため、日本海軍は戦時体制に移行。~
戦時の[[連合艦隊]]が結成され、三笠は連合艦隊[[旗艦]]・第一艦隊[[旗艦]](司令長官:[[東郷平八郎]])となった。~
~
1904年2月6日、[[日露戦争]]の勃発と同時に、[[連合艦隊]]が出撃。~
2月の旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、8月の黄海海戦に参加した。~
この際、三笠率いる連合艦隊はロシア旅順艦隊に打撃を与えたが、三笠も後部[[砲塔]]が破壊されるなど損害を受けた。~
修理を受けるために12月、三笠率いる第一艦隊は根拠地であった裏長山列島を離れて呉に入った。~
~
翌1905年2月、江田島・佐世保を経由し鎮海湾へ進出。~
来たるロシア第2・第3太平洋艦隊(バルチック艦隊)との決戦に備えて射撃・発射・運動など猛烈な訓練を行った。~
そして5月27日の対馬沖海戦では、アフリカ大陸沿岸経由でやってきたバルチック艦隊を迎え撃ち、有力なロシア戦艦群の集中砲火を浴びながらも僚艦とともによくこれを撃破した。~
1905年2月、江田島・佐世保を経由し鎮海湾へ進出。~
ロシア第2・第3太平洋[[艦隊]](バルチック艦隊)との決戦に備えて訓練航海を行った。~
~
日露戦争が終結した直後の9月11日、佐世保軍港停泊中に水兵の失火から火薬庫が爆発、沈没着底する((ちなみにこのとき、東郷提督は政府及び明治天皇への戦勝報告のため上陸していて難を逃れている。))((このため、戦勝記念[[観艦式]]には僚艦の[[敷島]]が参列した。))が、沈没地点の水深が浅かったため引き揚げられて現役復帰。~
その後、戦艦が「[[ド級>ドレッドノート(戦艦)]]」「[[超ド級]]」と進化する中で旧式化しつつも現役にありつづけた((この間、艦種が「[[海防艦]]」に変更されている。))本艦だったが、1921年の[[ワシントン海軍軍縮会議>ワシントン海軍軍縮条約]]で廃棄予定艦のリストに載せられてしまう。~
当初はこれにより、条約発効後に除籍され、実弾射撃演習の標的艦として処分されることになっていたが、本艦のあげた戦歴から、当時の日本国内で廃棄を惜しむ声が高まっていく。~
これを受けて、日本の代表団も会議に参加している他国と協議した結果、「再就役不可能な状態にする」ことを条件に記念艦として保有することが認められた。~
5月27日、[[対馬沖海戦]]にてバルチック[[艦隊]]を迎え撃ち、ロシア[[戦艦]]群の集中砲火を浴びながらもこれを撃破。~
~
予定では東京・芝浦の海岸に繋留保存されることになっていたが、1923年、除籍を前提として横須賀軍港に繋留中、関東大震災に遭遇して岸壁に接触・[[浸水]]した((接触した部位は、1921年9月にウラジオストク沖で座礁した際に応急修理を行った箇所だった。))ため、急遽、横須賀で保存することに変更された。~
この保存工事に当たって、白浜海岸((地震による浸水発生後、この地沖合いの浅瀬に曳航して座礁させられていた。))海底の岩場を掘って設置した海中ドックに、船首を東京の皇居へ向けた状態で船体を収め、その外周部を地面と同じ高さまで土砂で埋め立てた上で下甲板にコンクリートや土砂を充填し、船体を現在地に固定した。~
9月11日、日露戦争が終結した直後、佐世保軍港停泊中に[[水兵>兵卒]]の失火から火薬庫が爆発。~
沈没着底に至るも、沈没地点の水深が浅かったため、引き揚げられて現役に復帰。~
~
その後、[[ド級>ドレッドノート(戦艦)]]・[[超ド級]]の新型[[戦艦]]の登場と共に第一線から退くも、艦種を「[[海防艦]]」に変更して現役を続行したが、1921年の[[ワシントン海軍軍縮会議>ワシントン海軍軍縮条約]]で廃棄が決定。~
同条約の発効後に除籍されて実弾射撃演習の標的艦として処分される予定だったが、日露戦争での名声から日本国内で廃棄を惜しむ声が高まっていく。~
これを受けて上記の条約会議にて他国と協議した結果、再就役不可能な状態にすることを条件に記念艦として保有することが認められた。~
~
1923年、除籍を前提として横須賀軍港に繋留中、関東大震災にて被災。岸壁に衝突・[[浸水]]して航行能力を事実上喪失。~
これにより、繋留保存が予定されていた東京・芝浦の海岸への[[回航]]が不可能となり、急遽、横須賀で保存する事とされた。~
白浜海岸の海底を掘って設置した海中ドックに、船首を東京の皇居へ向けた状態で船体を収めた後、土砂・コンクリートを充填して船体を固定された。~

**戦後の荒廃〜復元 [#h5522434]
その後、[[第二次世界大戦]]の敗北に伴って進駐してきた[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]軍の「武装解除」指示((ソ連は更に進んで、本艦自体の解体を要求したが、これは他国に却下されている。))により、砲などの武装が撤去され、また、敗戦後の混乱期には心無い者たちによって艦の金属部品の大部分が持ち去られたり((東郷提督を敬愛していたアメリカの[[ニミッツ]]提督はこのことを知ると激怒し、[[海兵隊員>アメリカ海兵隊]]を歩哨に立たせたという。))、上部構造物の撤去された跡にダンスホールや水族館が設置されたりする((当時の横須賀市が「教育目的に利用する」として連合国軍から返還を受けたものの、実際には民間業者に運営を任せていたためである。))など、一時期極度に荒廃していたが、1958年から復元工事が行われ、1961年に完工。記念艦として再度公開が開始された。~
>この復元にあたって、東郷提督を敬愛していた[[アメリカ海軍]]の[[ニミッツ]]提督が、本を執筆してその印税を日本に寄付した。~
また、1958年に除籍され、翌年日本で解体されたチリ海軍の[[超ド級]][[戦艦]]「アルミランテ・ラトーレ((元英海軍「アイアン・デューク」級[[超ド級]][[戦艦]]「カナダ(HMS Canada)」。))」の部品がチリ政府から寄贈されるなど、内外から幅広く集められた浄財が活かされていた。
その後、[[第二次世界大戦]]後に進駐した[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]軍の「武装解除」指示により、砲などの武装が撤去された。~
また、敗戦後の混乱期における構造材の盗難や、保存を移管された民間企業による侮辱的な取り扱いなど、一時期は極度の荒廃にあった。~

>一方で、当時の日本国内では「復元保存すべき」と「解体撤去すべき」との意見((「『軍艦を重要文化財に指定した』例が過去にない」ことと、「荒廃が酷く、仮に復元できても文化財としての指定が難しいのでは」というのが主張の根拠であったという。))で賛否両論真っ二つに分かれていたが、後者の中には「残っている船体を『約4,000トン分のスクラップ』として売却し、その資金((当時の時価で約8,000万円分だったという。))で記念館を作ってはどうか」との意見まであったという。
>戦後間もなく進駐軍向けの娯楽施設に転用され、甲板上にダンスホールや水族館が設営されていた。~
また、保存場所(現在の三笠公園)一帯が遊園地「みかさ園」となっていた。

1992年、本艦は~
「世界に残っているもっとも古い甲鉄戦艦であり、造船史上きわめて価値が高く、良好に保存されている」~
として、世界船舶基金財団(英国)から「海事遺産賞」が贈られた。~

**現在 [#jf50bfdf]
現在の本艦は、前述のように横須賀の三笠公園に置かれ、有料で乗艦・観覧できるようになっている((ただし、毎年1月第2月曜日の「成人の日」には新成人のみ乗艦・観覧が無料となっている。))。~
船体の外郭は往時の姿を残しているが、上部構造物のほとんどは戦後の復元の際に新規作成されたレプリカである。~
また、船内で見学できるのは上甲板と中甲板のみであるが、ここにも資料展示室や上映室などが作られており、なおかつ、下甲板及び船体外周部は土砂やコンクリートで埋められているため、かつて船であったことの面影は大部分が失われ((残っている部分は後部区画や甲板の一部に残るチーク材など、だという。))、実質上「船の形をした資料館」になってしまっている。~
その後、1958年から復元工事が行われ、1961年から記念艦として公開が再開された。~
以降、現在まで横須賀の三笠公園に置かれ、原則有料で乗艦・観覧できるようになっている。~
~
本艦の運営・管理は「公益財団法人三笠保存会」に委託されているが、船体そのものは現在でも[[防衛省]]所管の国有財産((財務省が公開している国有財産のデータベースに、[[海上自衛隊]]横須賀地方総監部の施設「旧三笠艦保存所」として登録されており、検査・修理費も防衛費が充てられている。&br;  なお、会計上では「船舶」や「建物」ではなく「施設内の工作物」として扱われており、評価額は2円(なお、土地は2億5000万円)となっている。))である((ただし、現在の自衛隊とのつながりはそれほど強くなく、海自横須賀教育隊の一般曹候補生が「三笠見学」として訪れたり、隊員有志によるボランティアの清掃活動程度だという。))。
上述の理由で上部構造は壊滅的状態にあったため、記念艦としての上部構造物はほぼ全て復元されたレプリカである。~
内部も資料展示室・上映室などに作り替えられ、船体自体も埋め立てられているため、事実上「船の形をした資料館」となっている。~
~
本艦の運営・管理は公益財団法人「三笠保存会」に委託されているが、船体及びその所在地は現在でも[[防衛省]]所管の国有財産(国有地)となっている。~
財務省のデータベース上では[[海上自衛隊]]横須賀地方総監部の施設「旧三笠艦保存所」として登録され、検査・修理費も防衛費が充てられている。

>船体は[[海上自衛隊]]の訓令で「船舶」として扱われており、検査・修理は一般の[[艦艇]]の検査・修理と同等の技術を持つ業者が当たっている。~

>財務管理上、船体は建築物としての資産価値を計上されていない。~
建築基準における既存不適格建築物に該当するため、文化財としての保存事業から外れた目的への転用・売却は法的に不当だと考えられる。

**スペックデータ [#j9e84182]
|常備排水量|15,140t|
|全長|131.7m|
|全幅|23.2m|
|喫水|13.2m|
|最大幅|23.2m|
|[[喫水]]|8.3m|
|主缶|ベルヴィール式石炭専焼水管缶×25基|
|主機|石炭焚き直立型三段膨張型[[蒸気レシプロエンジン>蒸気機関]]×2基 2軸推進|
|機関最大出力|15,000hp|
|主機|直立型三段膨張式4気筒[[蒸気レシプロエンジン>蒸気機関]]×2基|
|推進器|スクリュープロペラ×2軸|
|機関最大出力|15,000hp(11,000kW)|
|燃料|石炭:1,521t|
|最大速力|18[[ノット]]|
|[[航続距離]]|7,000[[海里]]/10ノット|
|乗員|艦長以下860名|
|兵装|40口径30.5cm連装砲×2基4門&br;40口径15.2cm単装砲×14門&br;40口径7.6cm単装砲×20門&br;47mm単装砲×16基16門&br;45cm魚雷発射管×4基|
|[[装甲]]|KC(クルップ)鋼&br;舷側:229mm&br;甲板:76mm|
|兵装|40口径30.5cm連装砲×2基4門&br;40口径15.2cm単装砲×14門&br;40口径7.6cm単装砲×20門&br;47mm単装砲×16基16門&br;45cm[[魚雷]]発射管×4基|
|[[装甲]]|KC装甲鋼板(クルップ鋼)&br;舷側:228.6mm〜101.6mm(KC鋼)&br;甲板:76.2mm〜50.8mm&br;[[砲塔]]:355.6mm〜203.2mm&br;砲郭:152.4mm〜50.8mm|
~


トップ 新規 一覧 単語検索 最終更新ヘルプ   最終更新のRSS