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*&ruby(こくみんぎゆうせんとうたい){【国民義勇戦闘隊】}; [#hd16f3e6]
[[第二次世界大戦]]末期の1945年、日本政府が[[連合国]]軍の日本本土侵攻に備えて編成した[[民兵]]組織。~
ドイツの「国民突撃隊」や英国の「ホーム・ガード」に相当する。~
[[第二次世界大戦]]末期の1945年、日本政府が[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]軍の日本本土侵攻に備えて編成した[[民兵]]組織。~
同年8月、日本政府が[[ポツダム宣言]]を受諾して[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]に[[降伏]]したことにより存在理由を失い、降伏文書調印式の行われた9月2日に廃止された。~
「義勇」と命名されてはいるが、実態は半ば強制的なものであり、いわゆる[[義勇兵]]ではない。~
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1945年6月23日に施行された「義勇兵役法」により、15〜60歳までの(軍務についていない)男性及び17歳〜40歳までの女性を召集し、戦闘部隊として編成することとしたのがこの部隊である。~
編成は市町村及び職域単位で行われ、連合国軍の本土侵攻時には最大2800万人を動員することとしていた。~
当初、この部隊は「国民義勇隊」と称されており、国民の組織的管理や[[工兵]]の簡易的な補助作業([[空襲>爆撃]]の焼け跡整理・陣地構築など)などを任務とし、戦闘には参加させない予定であった。~
しかし1945年(昭和20年)6月23日((奇しくもこの日は、沖縄の[[日本軍]]守備隊司令部が[[玉砕]]し、沖縄が[[連合国軍>連合国(第二次世界大戦)]]に占領された日でもあった。))に施行された「義勇兵役法」により、戦闘[[部隊]]として[[再編>再編成]]された。~
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しかし、その頃には[[アメリカ軍]]による[[戦略爆撃]]と[[通商破壊戦]]によって[[兵器]]生産に必要な工業施設をはじめとするインフラが破壊されていたこともあって、隊員にはきわめて劣悪な装備しか与えられなかった。((これと並行して、正規軍においても(徴兵年齢を大幅に拡張するなどして)大規模な動員が行われたが、この部隊にさえ装備品がまともに行き渡らなかったくらいである。))~
具体的には、幕末時代以前の旧式銃(火縄銃など)や粗製濫造の簡易銃、簡便な作りの手製[[手榴弾]]や[[爆雷]]、弓矢、刀、[[銃剣]]つきの訓練用木製模擬銃、果ては鍬や鎌などの農具、刺又、突棒などの捕物用具、(マニュアルに基づいてありあわせの材料で自作した)手製の槍まであったという。~
この部隊には、15歳〜60歳までの非軍属の男性と17歳〜40歳までの女性、および自発的志願者を招集し、連合国軍の本土侵攻時に全国((前述の通り、既に沖縄は陥落していた。また、1943年から日本本土に組み込まれていた南樺太も含まれている。))で最大2,800万人を動員する事を想定していた。~
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同年8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して[[連合国]]に無条件降伏したことで存在理由を失い、降伏文書調印式の行われた9月2日に廃止された。
だが、その装備は江戸時代以前の火縄銃、粗製濫造の簡易銃、手製の[[手榴弾]]や[[爆雷]]、弓矢、刀、[[銃剣]]つき木製模擬銃、鍬や鎌などの農具、木や竹を尖らせただけの槍などという――1世紀以上前の水準でしかなかった。~
当時の日本は、[[アメリカ軍]]主体の連合国軍による[[戦略爆撃]]と[[通商破壊戦]]によって完全に疲弊し、[[兵器]]生産に必要な工業生産施設がほとんど機能しなくなっていた。~
また、1931年の満州事変以来、十数年に渡って戦争状態を続け、しかも1941年12月からの3年数ヶ月間は[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]との[[全面戦争>国家総力戦]]になっていたため、わずかに残った工業生産施設を維持するだけの人的資源すら残されてはいなかった((一説によれば、どのような超大国でも[[国家総力戦]]が1年以上続けば経済が破綻するともいう。))。~
結果、正規軍でさえ[[新兵>兵卒]]にまともな装備品を供給できない((この時期、正規軍においても[[徴兵>徴兵制]]の年齢・身体的要件を大幅に緩和したり、[[在郷軍人>予備役]]を再招集したり、特技教育中の将兵の教育を中途で切り上げるなどして、40個[[師団]]以上の兵力を捻出していた。))状況下で、この部隊はさらに劣悪な装備状況に置かれていたのである。~
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戦時日本の末期的状況を示す逸話として有名な~
「竹槍で[[爆撃機]]を撃墜しようとしていた」~
というブラックジョークは、こうした悲惨な状況から生まれたという。


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