【軍旗】(ぐんき)

軍隊において、部隊が所属する組織をあらわす標識として用いられる旗。

近代以後の陸軍では「連隊」が基本編制となったため、特に連隊単位の組織に対して軍から交付された旗のことを指す。
このため、部隊所属将兵の団結の象徴*1として大切に扱われ、また、それを敵に奪われる事は最大の恥辱とされ、そのような事態が起きると関係者は厳しく処分された。

かつては司令部の所在を示すため、平時・戦時を問わず常に携行・掲揚されていた。
しかし、無線通信の発達と共に存在意義を失い、今日では式典・儀礼でのみ用いられる。

旧日本陸軍における「軍旗」

旧日本陸軍での軍旗は、各地の歩兵連隊・騎兵連隊に対して、全軍最高指揮官である天皇から下賜されていた。

歩兵・騎兵連隊が新たに編成されると、初代の連隊長と連隊旗手に指名された将校*2は正装して皇居に参内し、勅語*3と共に天皇から軍旗を授けられた。
連隊は軍旗を下賜された時点で発足したとみなされ、それ以前は正式な部隊として認められなかった。

こうした経緯で交付されたものであるため、連隊発足後に軍旗が再交付される事は基本的になく*4、たとえ布地や付属部品が劣化・破損しても修復することすら許されなかった。
このため、長い歴史を持つ伝統豊かな部隊では「旗の一部が裂けたり無くなったりしている軍旗」「房が旗から分離した軍旗」「房と旗竿しか残っていない軍旗」などというものもざらにあった*5

軍旗を担当する「連隊旗手」には少尉若しくは中尉が指名された。
選考基準は「長身・眉目秀麗かつ容姿端麗な者*6」とされていた。
またこの他に、旗手の業務を補助するために誘導将校や軍旗衛兵が配置された。
加えて、戦時には軍旗を守るために1個中隊相当の兵力*7が割かれるなど、他国軍に比べても旗の保持には非常に神経を使っていた。

やがて、騎兵連隊は機械化に伴って連隊旗を返納し、連隊旗は歩兵連隊だけのものになっていった。

1945年の大東亜戦争終戦に伴い、「敵の手に渡さないように」と連隊旗が奉焼(焼却処分)され、ほぼ全てが焼失。
現在では、わずかに歩兵第321連隊の連隊旗のみが完全な形で残存しており、東京・靖国神社の「遊就館」に展示保存されている*8

関連:乃木希典

軍旗祭

旧軍では天皇から旗を下賜された日を連隊の創設記念日とし、毎年「軍旗祭」を開催していた。
平時なら訓練・演習を休み、兵舎を周辺住民に開放し、将兵が余興や模擬戦展示・模擬店などを催していたという。*9


*1 海軍艦艇では「軍艦旗」が同様の機能を果たしている。
*2 連隊長は中佐もしくは大佐、連隊旗手は(士官学校を卒業してから部隊勤務期間の少ない――20代前半〜中盤の)少尉もしくは中尉。
*3 基本的には
  「歩兵(騎兵)第○聯隊編制成ルヲ告ク。仍テ其軍旗一旒ヲ授ク。汝軍人等協力同心シテ益威武ヲ宣揚シ我帝國ヲ保護セヨ」
  というものであったが、時代・状況によりこれとは異なる勅語が下されていた、とする資料もある。

*4 ただし、例外的に軍旗が再交付されたケースも少数ながら存在する。
*5 今日、この事実は旧軍に対する侮蔑的意図をもって語られる事が少なくない。
  「軍旗と称して申し訳程度に房が付いた竿を掲揚する狭量愚昧な狂信者の群れ」というわけだ。
  もちろん、それは民族や歴史への考慮を欠いた短絡的な意見であるが、合理性や外交的観点に欠けた伝統であった事は否定できない。

*6 加えて、旗手には暗黙の了解として「禁欲」が求められていた。
*7 実際には連隊本部付属の予備兵力として運用されていた。
*8 これは、連隊長が軍旗の喪失を惜しみ、旗竿を納めた「奉安箱」だけを燃やし、旗本体を1952年の主権回復まで別の場所に隠したためであった。
  そのため、これも旗竿だけは戦後の復元品である。

*9 現在の自衛隊であれば、各地の駐屯地・基地で毎年催される「開設記念式典」やちびっ子ヤング大会に近しいものである。

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