*&ruby(このえしだん(にほん)){【近衛師団(日本)】}; [#ub47dec5]
| |創設|廃止|兵種|最終上級部隊|最終所在地|
|近衛第1師団|1943年((留守近衛師団母体))|1945年|[[歩兵]]|東部軍管区|東京|
|近衛第2師団|1891年|1945年|[[自動車化>機械化]][[歩兵]]|第25軍|スマトラ島・メダン|
|近衛第3師団|1944年((留守近衛第2師団母体))|1945年|[[歩兵]]|第52軍|千葉県・成東|
~
[[旧日本陸軍>旧軍]]における[[親衛隊]]に相当する[[師団]]。~
主な任務は二つ。

:&ruby(きんけつしゅご){禁闕守護};|皇居の警備や皇室・皇族の身辺警護
:&ruby(ほうれんぐぶ){鳳輦供奉};|儀仗として皇室の儀式に参列する

明治維新直後の1871年(明治4年)、「天皇の守護」を名目に薩摩・長州・土佐の3藩から派出された1万人の兵によって編成された「&ruby(ごしんぺい){御親兵};」を源流とする。~
当初は皇居・皇族の警備の他、「[[徴兵令]]」で入隊した兵士の基礎的な訓練も受け持っていた((発足当初の明治政府は直属の軍事力がまだ弱く、兵力の基幹を雄藩とその出身者に頼らざるを得なかった。))が、1891年に「師団」編成に改編され、皇居・皇族の警備にあたる一方、戦時には野戦師団のひとつとして、必要に応じ戦地へ派遣された。~
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こうした経緯から、帝国陸軍の最精鋭かつ最古参の部隊として知られていたが、その一方で「[[竹橋事件]]」や「[[二・二六事件]]」「宮城事件((昭和20年8月14日〜15日にかけて、[[ポツダム宣言]]の受諾による大日本帝国の[[条件付き降伏>降伏]]を阻止すべく、陸軍省及び近衛第1師団に勤務する一部の[[参謀将校>参謀]]が中心となって起こしたクーデター未遂事件。))」といった[[反乱(及びその未遂)事件>クーデター]]の中心となることもあった((これに反し、皇宮警察は(そもそも竹橋事件が創設の動機となったこともあって)創設以来、そうした事件に関与したことは一度もない。))。~
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関連:[[親衛隊]] [[第82空挺師団(アメリカ軍)]] [[政経中枢師団]]

**帝国陸軍の「エリート部隊」として [#e7a0ea45]
旧軍(陸軍・海軍とも)の下士官及び兵は、部隊の所在地(または[[艦船の母港>鎮守府]])に関係のある地域出身者が配属されるのが基本であったが、本師団は「禁闕守護」の任務があることから、恒久的な拠点こそ東京に置かれているものの、兵員は毎年行われる「[[兵役検査>徴兵令]]」で全国各地の一般部隊に入営した若者のうち、眉目秀麗・姿勢良好な者が選抜の上配属された((その後、1940年からは一般部隊と同様の基準により、東京・千葉・神奈川・埼玉・山梨の各府県出身者のみを配属するようになった(この地の軍政を担当していた第1師団が、恒久的な拠点を満州に移したため)。))。~
また、将来の天皇([[大元帥>元帥]])となる皇太子は、陸軍軍人として師団隷下の「近衛歩兵第1連隊」附となるのが通例であり((一方で海軍軍人としての軍籍もあり、そちらでは「第1艦隊司令部附」という配置になっていた。))、明治憲法下で即位した大正天皇及び昭和天皇は、皇位に就くまで同連隊附の士官として籍を置いていた((なお、今上天皇も[[太平洋戦争]]中の皇太子時代に少尉任官される年齢を迎えていたが、昭和天皇の意向により軍籍は与えられなかった。))。~
>そのため、兵として本師団に配属されることは「一族・郷土の誇り」とされ、本師団で兵役を務めた若者は、満期除隊して[[予備役]]になった後も縁談が多く舞い込んだり、地元の名士から一席設けられたりと、地域のコミュニティでもてはやされたという。

また、こうした「特別扱い」は、将兵が着用する制服にも及んでおり、~
「制帽の鉢巻部分の色が、一般部隊では紺色もしくは黄色、[[騎兵]]の制服につける飾り紐が一般部隊では黒であったのに対し、近衛兵ではそれらが赤色だった」~
「騎兵部隊の下士官・兵が当初着用していた『ドルマン式上着』は、後に一般師団では廃止されたが、近衛師団では『近衛騎兵下士官供奉服』という名で使用され続けた」~
「軍帽につく帽章『五芒星』の周りに桜葉の飾りがついていた」~
「制服は常に新品が支給され、その古着が一般部隊へ回された」~
などの話が伝わっている。~

**大東亜戦争にて [#u46b5f20]
[[大東亜戦争]]では、開戦直前に師団の主力が南方へ進出し、緒戦のマレー・スマトラ攻略戦では他の師団と共に活躍した。((このとき、師団の[[歩兵]]部隊が自転車による[[機動]]を行い「銀輪部隊」として宣伝された。))~
その後、昭和18年に本師団の東京に残留した部隊((近衛歩兵第1・第2連隊の他、新たに編成された近衛歩兵第6・第7連隊など。))の兵員を基幹に「近衛第1師団」を新たに編成し、本来任務である皇居・皇族の警備や儀仗を受け持たせるとともに、スマトラに派遣された隷下部隊((近衛歩兵第3〜第5連隊など。))をもって「近衛第2師団」を編成。~
近衛第2師団は、終戦までスマトラ島に駐留して現地の守備に当たっていた。~
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また、終戦直前には留守近衛第2師団((東京に残留した本師団所属部隊のうち、近衛第1師団に編入されなかった部隊のこと。))の兵員を基幹として「近衛第3師団」が新たに編成された。~
近衛第3師団は千葉県・成東(現在の山武市)に駐留し、[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]軍地上部隊が関東地方(千葉県もしくは茨城県の太平洋沿岸)に上陸侵攻した際には、増援として敵の[[海岸堡>橋頭堡]]に突入してこれを撃破する任務を与えられていたが、[[ポツダム宣言]]受諾により日本が降伏したため、実戦には参加しなかった。~
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**その後 [#ic9de845]
終戦に伴って軍が解体された後、皇居・皇室の身辺警護は宮内省隷下の「禁衛府」が受け継ぐこととなり、師団所属の元将兵の一部は隷下に新設された「皇宮衛士総隊」という組織に転じた((ただしその大半は、翌年2月に民間から採用された衛士候補者と交代で罷免された。))が、これも[[占領軍>アメリカ軍]]([[GHQ]])の命令によってまもなく廃止され((これは、[[第一次世界大戦]]後のドイツの再軍備が[[警察軍>憲兵]]を基になされたことにかんがみ、将来の日本における再軍備の可能性を排除する意図があったとされている。))、現在では近衛師団の負っていた「皇居・皇室の警護」任務は警察庁の「皇宮警察」に引き継がれている。~
>なお、皇居に近い北の丸公園には警視庁第1機動隊の隊舎があり、同隊のニックネームも「近衛((隊舎の所在地と儀仗隊を持つことから命名されたという。))」と呼ばれている。~

ちなみに、近衛(第1)師団の旧司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館の工芸館として使われている。~

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