【騎士】(きし)

Knight.

中世の西欧諸国で発展した騎兵の一形態。
戦術的な分類としては重騎兵に類するが、馬上試合や儀礼的決闘を行う事に特化され、見栄えよく取り繕われていた。
戦場では騎士同士が各々名乗りを上げて「公正に」戦い、勝者は敗者の身柄と引き替えに身代金や利権・領土を得るものとされる。
非道な扱いを受けないよう、また身代金の支払いが滞らないよう互いに礼儀が求められ、捕虜となった騎士は愛馬共々大切に扱われた、という。

中世後期、経済発展と共に高度で大規模な戦争が生じると共に、騎士は歴史の表舞台から退場を余儀なくされた。
生き残った騎士は仇討ち強盗*1傭兵、荘園領主などに変質していく*2事になる。

騎士道

前述の通り、騎士は名誉と儀礼を極端に重んじ、そのために高度な規範を作り上げていたという。
その徳目は時代ごとに虚飾されていく傾向にあったが、おおむね以下の通り。

「武勇」
武勇に優れていなければ、騎士の名誉は守れない。
これは道徳論ではなく、おおむね厳然たる事実であった。
領主がに引き籠もったまま部下だけ死地に送り出すようなら、その部下は敵軍に合流して領主の城を攻めるだろう。
末端の騎士にしても、食卓には自分で狩猟をした肉を並べるのが普通であったし、賭け試合などで喧嘩に興じる機会には事欠かなかった。
……とはいえ、全く何の武術も心得ない騎士などいないにせよ、嘲笑の種になるほど軟弱な騎士はいた。
「信義」
約束を守らない者には名誉はない。
もちろん、騎士にとっては主従の契約、決闘のルールが最も重要な約束であった。
ただし、これは相手も信義を解するだけの名誉を備えている事が大前提であり、裏切り者には信義ではなく武勇で応えるのが常である*3
身分の卑しい者や異教徒との間に信義は成立しないので、そんな連中との約束はしなくていいし、したとしても守らなくて良い、とされていた。
あげくには、自分自身こそ裏切り者である事を隠蔽するために犠牲者を捕らえ、さんざんに辱め、名誉を傷つけて信望を失わせるなどということもあった。
「寛容」
キリスト教の道徳と、それ以前の部族社会における経済観念の薄さから、不必要な蓄財は極めて不名誉な事であるとされていた*4
実際、十分なプレゼントや報酬、定期的に行われる豪華な宴会、子弟らを預かって教育を与える事などは領主の義務であった。
そうした権勢の維持費はしばしば領主が自然に捻出できる限度を超え、借金に喘ぎながら豪奢に散財する貴族も皆無ではなかった。
「敬虔」
キリスト教に対して敬虔な信仰を持ち、慎ましく暮らす事……はさておき、キリスト教に入信する事は騎士の必須条件であった。
名誉を共有するためには、まず価値観を共有しなければならず、でなければ異教徒として皆殺しにする以外に紛争解決の手段がない*5
つまり、端的に言って、当時のヨーロッパ人には異文化と融和するための土壌がなかった。
欠けていた土壌とはすなわち、学識である。
これは必然的に、キリスト教の教義を正しく理解する能力にも欠けていたという事である。
男根を模した木の棒の周りで春の女神たるマリア様に生け贄を捧げて踊る騎士がいたとして、近隣の神父がそれを咎めるとは限らなかった。
神父達のほとんども、子供の頃から故郷でそのような祭りに参加していたからだ。
「貴婦人への献身」
美しい姫君や貴婦人を崇拝し、その愛、肉体的な愛ではなく精神的な結びつきを得る事、捧げる事は名誉とされていた。
……身も蓋もない話をすれば、騎士階級は戦士階級であるから、自然、女性と接触する機会は稀少であった。
そしてまた、貴族がいざ戦場へと出征したとなれば、その間の領地を護るのはその妻である貴婦人の仕事だった。
従って、貴婦人が若い騎士達をまるで恋人のように侍らせて所領を安堵し、お気に入りの騎士を「護衛」として連れ歩くのは自然な成り行きである。
そもそも騎士の結婚はすべからく政略結婚であったから、職業的な連帯意識はともかく、恋愛感情を持つものとは限らなかった。
それでも人間は恋をする生き物であったが、夫の恋人がしばしば妾であったのと同様、妻の恋人はしばしば夫の家臣であった。
一方で一介の騎士にとって、貴婦人の愛は政治的にも有利な事であったが、反面で恨まれる事などあろうものなら命にさえ関わる。
多くの騎士は真摯な(そしてしばしば取り返しの付かない)愛を避け、集団で、半ば冗談めいた形で崇拝してみせるに留まった。

こうした規範は後世まで「騎士道」として伝わっているが、実際の戦闘でどこまで遵守されていたかは疑わしい。
人質解放交渉が難航したか頓挫した場合、虜囚になった騎士や貴族が地下牢で獄死するのも珍しい事ではなかった。
ルール無用の無礼討ち・騙し討ちも多く、特に攻城戦ではおよそ公正な決闘など望めるものではない*6
「騎士道」に関する逸話・説話のほとんどは、騎士が軍事的価値を失った後の時代に創作されたものと思われる。

当時、まだ王権神授説は生まれておらず、貴族の血統を神聖視し伝統として守っていくような哲学もなかった。
往時の騎士は大半がサクソン・ゲルマン・スラブ諸部族の有力者であり、キリスト教に帰依してから数世代以下の家系も少なくなかった。
そうでない騎士にしても、やはり血筋を遡ればいずれ開拓民や山賊に行き当たるのが大半で、ローマ帝国まで血筋を遡れる事は稀だった。
単に領土と軍事力を持ち、それをさらに有力な族長に提供する代わりに支配権を確立している傭兵――それが騎士の実態であった。
その領地が大きい者は貴族なり王なりを自称したが、こうした宣言の有効性は法や血筋でなく軍事力で決まるのが常であった。
実際、戦乱の度に仕える王を変えるような騎士もそう珍しい存在ではなかった。

すなわち、騎士が名誉と儀礼を極端に重んじていたのは、名の知れた相手か、誰にでもわかる方法でなければ意志の疎通すら危うかった事の裏返しでもある。

歴史的経緯

西欧では、古代から中世に至る過程で騎兵戦術が退化していた。

騎兵や騎士の戦いを描くフィクションでは、しばしば「騎兵の隊列が先陣を切って突撃する」という描写が為される。
文学史によれば、そうした演出は少なくとも中世の騎士物語にまで源流を遡る事ができる*7
その当時、まだ「虚構性」の観念は定着していなかったので、騎士物語もまた「実在した騎士の姿」として受け止められていたと思われる。

つまり、当時の騎士は「騎兵の隊列が先陣を切って突撃する」のを物語に謡われるような誉れ高い行為と考えていた。
騎士は、状況が許す限りそうした英雄的業績を残すことを望んでいたし、成し遂げる事ができれば大いに賞賛を受け名声を博した。

もちろん、これは騎兵の運用教則には反する。
騎兵だけが真っ先に突撃すれば、騎兵だけが敵中で孤立し各個撃破される。
そうなると、随伴の歩兵は、騎兵が戦っているのをただ眺めているしかない上に、味方の騎兵が撃破されてしまえば、何のために戦場に来たのかもわからないまま追撃で殺されていく。
そんな戦術が常態化していたので、必然、当時の農民歩兵は練度も士気も極めて劣悪にならざるを得なかった。

実際の所、敵騎士の単身突撃に呼応して「敵ながら天晴れ」とばかりに騎士だけを迎撃に出す、などという事態もザラにあったようではある。
だがそうした「騎士道精神」は同じ騎士に対してのみ発揮され、どちらにしても戦場に付き添わされる歩兵は悲惨であった。

中世ヨーロッパが後世において「暗黒の時代」と称される所以は多くあるが、この野蛮な戦術形態もその一つである。

古代ギリシャで既に確立されていた歩兵騎兵の連携戦術が、なぜ中世で完全に忘れ去られたのかについては諸説ある。
一般的には、古代の名将が編み出した戦術をキリスト教が「冒涜的」だと批判・弾圧したからだとされる。
しかし一方で、騎士階級の形成は経済的な理由によるものだという説もある*8
またそもそも急激に拡大したキリスト教社会の歪み、要約すれば識字率と教導体制の問題であるという説もある。

どちらにせよ、騎兵戦術を含む軍事学(これに限ったことではないが)の知識は相当に失伝し、欧州全体で軍隊参謀の質が低下していた事は疑いない。
中世前半の王侯貴族にとって、軍事力ではなく姻戚関係による縁戚外交で紛争を避ける事が防衛戦略の要であった。*9
騎士は対外戦争よりも領内の治安維持、野盗に対する警察力を期待して配置されたものだが、時には野盗と同一人物であったりもした。
「危険な賭け試合」程度のトラブルはどう統治しても避けようがなく、時にはそれが大規模な紛争に拡大してしまう事もあった。

こうしたことから、中世後期に再び「戦争」が起きると共に騎士は存在意義を失っていったものとされる。


*1 当時、貴人が犯罪被害への復讐などを目的として決闘に挑む事を認める「決闘法(フェーデ)」があった。
  この法は騎士崩れが恐喝を行う際に格好の名目になったという。

*2 21世紀の今日でも、西欧文化圏の国々では階級や勲章・名誉称号として「騎士」の名残がいくらか見受けられる。
*3 主君が理不尽な命令を出した場合、自らの心の中に聞こえる「神の小さな声」を聞くことでそれを拒否してよい、とされていた。
  これは「信仰の名のもとに政治に逆らう事を認める」哲学を生み、現代における「良心的兵役忌避」などに通じていった。
  その一方で、これは「不条理な戯言を信仰の名の元に正当化する」前例でもあり、異端審問・魔女狩りなどの法学史上に残るおぞましい事態にも繋がっていった。

*4 なお、当時もっとも多くの財産を貯蓄していたのは教会や修道院であった事を付記しておく。
  神の御心に沿う正当な目的のために使われるのだから不必要な蓄財ではない、という建前である。

*5 実際、騎士団によって絶滅の憂き目を見たと思われる民族がいくつかある。
*6 当時の戦争では当たり前だった「敵領内における民衆への暴行や略奪」に騎士も参加していることがままあった。
*7 なぜそのような描写になってしまったかといえば、おそらく視点の問題であろう。
  騎士物語は騎士自身、あるいは彼らに扶養される子女を楽しませる事を意図しており、考証の正確性は要求されていなかった。
  またそもそも、識字率の低かった当時の「物語」は、吟遊詩人が語り聞かせる類のもので、微に入り細を穿つような詳細な描写など不可能であった。

*8 高度な集団戦術を実行に移すには大規模な軍隊、言い換えれば膨大な軍事費が必要である。
  大帝国ローマの離散によって生まれた中世の西欧社会に、そんな費用を捻出できる者はいなかった。

*9 現在の英国で、王位継承順位保持者が国外の王室・名家にまで存在しているのもこの名残と言える。
  ただし、彼ら彼女らは現英国王家とはかなりの遠縁になるため、英国の王位を継承できる可能性はほぼ無いといわれている。


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