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ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich, 1904年3月7日 ハレ - 1942年6月7日)
ボヘミア(ドイツ出身)のSS大将。金髪碧眼の美青年で乗馬・陸上競技・水泳・フェンシングが得意であった。SS長官ハインリヒ・ヒムラーに次ぐSSナンバー2の実力者であった。ヒトラー政権下のドイツ諜報機関トップとしてナチ党内でも恐れられ、あだ名は金髪の野獣もしくは第三帝国の斬首官。

少年時代、周囲の子どもたちからユダヤ系であるとする事実無根の中傷を受けたハイドリヒは、その反動か早くから反ユダヤ主義的な右翼運動に参加する。1922年、おりしも第一次世界大戦敗戦後の恐慌がドイツを襲う中、経済的な事情から進学を断念し、海軍への入隊を決意。際立って優秀な成績を収め、順調に昇進を続ける。1926年には少尉、1928年には中尉に任官している。ロシア語も堪能であったという。

新進気鋭の青年将校として周囲から将来を嘱望されていたが、経済界の有力者の娘との交際のもつれが原因となり、わいせつ容疑で軍法会議にかけられ海軍を追放される。その後、ナチ党に入党。ハインリヒ・ヒムラーの指揮するSSに属して、ヒムラーの信任のもとにたちまち出世の階段を昇る。1936年6月26日「秘密国家警察」(ゲシュタポ)と「刑事警察」を統合した事により、新たに「国家保安本部(RSHA)」が設置され「国家保安本部長官」に任命される。

直属の上司であるヒムラーの命令には忠実なハイドリヒだったが、陰ではヒムラーを「間抜け」と評している事からもわかるように、個人的な忠誠心など持ってはいなかった。一方のヒムラーも、ハイドリヒの能力と増大する権力に内心恐れを抱きつつ、その力に頼らざるを得ないという複雑な主従関係であった。また総統であるヒトラーに対しても、他のナチ党高官と異なり、けして心酔していたわけではなかった。ユダヤ人に対する激しい憎悪を示すエピソードには事欠かないハイドリヒだが、イデオロギーには無関心で、彼を動かしていたのはもっぱら権力欲であったとされる。また、生涯を通じて友人らしい友人を持たなかった。

1941年には37歳の若さでSS大将に昇進。同年、モラビア・ボヘミア保護領総督代理となる。この人事をめぐっては、ナチ党内部の権力闘争に基づく左遷と見る向きもある。経緯はどうあれ、ここでも卓抜した行政官としてアメとムチを巧みに使い分けるハイドリヒの統治は高度の成功を収め、モラビア・ボヘミア(チェコ)地域は次第にドイツの支配が浸透しつつあった。

こうした状況に危機感を抱いた時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは密かにハイドリヒの暗殺を画策。ドイツによる激しい報復を懸念したチェコ国内のレジスタンスは再三に渡って中止を要請するが、チャーチルは強引に計画を推進する。そして1942年5月27日、愛国的チェコ人で組織されたイギリス軍暗殺部隊により、プラハ市内をオープンカーでの移動中に手榴弾を投げつけられて重傷を負う。懸命の治療により一時は持ち直したかに見えたものの、6月4日に敗血症で波乱の生涯を閉じる。

ハイドリヒの死をひどく嘆いたヒトラーは、盛大な葬儀の席で彼を鋼鉄の心臓を持った男と称えている。以下はヒトラーの弔辞である。


故人を悼む言葉を簡潔に述べさせていただく。 彼は最高の国家社会主義者の一人であり、ドイツ帝国の思想の最大の守護者の一人であり、帝国のあらゆる敵にとっては最大の障害の一つであった。 親愛なる同志ハイドリヒよ、党首およびドイツ帝国元首として、私は与えうる最高の栄誉を君に授けよう。 最高位のドイツ勲章である。これを受章するのは、トート同志に次いで君が二人目だ。


なお、このハイドリヒ暗殺に対する報復として、チェコ領内ではヒトラーの命令により50万近いSS隊員を動員した大規模な犯人探しと徹底的なレジスタンス弾圧が行わた。その結果、プラハ近郊のリディツェ村は村全体がSSの部隊によって破壊されたほか、数千人のチェコ人が収容所へ連行されている。

比較的年齢層の低いナチ党指導部の中でも最若年といっていい若さながら、冷酷な性格と突出した才能でみるみる出世を遂げたハイドリヒは大変な自信家であったとされる。野心家でもあった性格や年齢的な面から、生存していればヒトラーの有力な後継者候補となっていた事は間違いない。



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