【フォークランド紛争】(ふぉーくらんどふんそう)

1982年、南米・アルゼンチン沖にある英領フォークランド諸島を巡ってアルゼンチンとイギリスが争った戦い。
アルゼンチン名で「マルビナス戦争」と呼ばれることもある。
20世紀後半の冷戦期、東西(米ソ)両陣営の代理戦争が頻発する中、「西側」と呼ばれる国同士で争った珍しい戦いでもある。

戦争の経緯

この戦いは、1981年にアルゼンチンの大統領に就任したガルチェリ将軍が、19世紀ごろから英国との間で領土問題となっていたフォークランド諸島の実力奪還を、国内の不満をそらす目的で始めたことを発端とする。
アルゼンチン軍は1982年3月、フォークランド諸島から南東1300kmにある英領サウスジョージア島を占拠、翌4月にはフォークランド諸島を占拠し、軍政下に置いた。
駐在していた総督と60名の海兵隊員は捕虜になった。

これに対し、時のイギリス首相マーガレット・サッチャーは直ちに武力奪還を決定し、民間船舶までも動員した大規模な軍事行動を発動した。
4月25日にサウスジョージア島へ海兵隊が上陸、これを奪回した。

そして5月になると英軍の本格的な反撃が始まった。
まず「チャーチル」級攻撃原潜「コンカラー」がアルゼンチン巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を撃沈、以後のアルゼンチン海軍の行動を大きく牽制した。*1
続いて、本土から飛んできたバルカン爆撃機や空母に搭載されたハリアーにより、フォークランド諸島等への爆撃が開始された。
その間に、英側の防空網を突破したアルゼンチン空軍の「シュペル・エタンダール」攻撃機が発射した空対艦ミサイルAM-39駆逐艦「シェフィールド」に命中し撃沈。
これ以後、英艦隊は完全な対空哨戒ができない場合は常にチャフを放つようになった。

5月21日、英海兵隊は東フォークランド諸島へ上陸し、数日後に制圧。
このころ、アルゼンチン攻撃機が英艦隊やハリアーと交戦し、アルゼンチン軍機が多数撃墜されている。
6月5日、ついにフォークランド本島へ英軍が上陸作戦を決行、首都ポートスタンリーへ前進。
そして6月14日、現地のアルゼンチン軍が英軍に降伏し、戦闘は終結した。
双方の政治的な配慮によって、フォークランド諸島以外への戦闘区域拡大は避けられた。

主な戦訓

この戦争は、その後の軍事技術に大きな影響を与えたいくつもの戦訓を残した。
以下にその一例をあげる。

  • 早期警戒機の支援がない艦艇の脆弱性が再認識されるとともに、対艦ミサイルの有効性が確認された。
    この戦争前の1978年、英国海軍は正規空母を全廃し、搭載していたフェアリー「ガネット」早期警戒機を退役させていた*2
    そのため、固定翼機を運用できないSTOVL空母が主力だった英艦隊は航空脅威の探知で大きく遅れを取るはめになった*3
    また、戦場が本国から遠く離れていたため、陸上基地からの支援も限定的なものでしかなかった。

  • アルミ素材を兵器に使用することの危険性が判明した。
    駆逐艦「シェフィールド」にエグゾセが命中し、沈没した戦闘の経過を分析したところ、同艦に命中したエグゾセ*4固体燃料ロケットに残っていた未燃焼の燃料が艦上で燃焼したことで、船体のアルミ素材が融点を超えて劣化し、強度を失って沈没に繋がったことが判明した。
    当時、戦闘艦艇にも(軽量化のためとして)アルミ合金を使用していたものがあったが、これ以後、各国はこの方針を転換することになった。

  • STOVL空母の有効性が確認された。
    この後、米国のように正規空母を保有・運用できない中小国の海軍がハリアーと共にSTOVL空母を導入するケースがいくつか現れた。

  • 超長距離からの狙撃に対応できる対物ライフルが開発されるきっかけになった。
    アルゼンチン軍はM2重機関銃にスコープを付け、簡易狙撃銃としてイギリス軍を迎え撃った。
    対するイギリス軍は、あまりにも遠い位置からの狙撃に手持ちの銃器ではまったく歯が立たず、陣地攻撃のために高価な対戦車ミサイルを投入せざるを得なくなったという。

*1 このため、アルゼンチン海軍は唯一の空母「ベインテシンコ・デ・マヨ」を温存する方向に転換。搭載していたA-4及びシュペル・エタンダールを陸揚げして陸上から展開させた。
*2 同じく搭載されていた「ファントム戦闘爆撃機・「バッカニア」攻撃機空軍へ移籍した。
*3 戦後、イギリス海軍はこれを教訓として、シーキングの早期警戒型を開発して運用している。
*4 ただし、弾頭は不発だった。

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