【フィデル・カストロ】(ふぃでる・かすとろ)

(1926- )

キューバにおける政治家あるいは革命家である。
キューバ共産党に所属し、1959年のキューバ革命を指導し、その後はキューバの国家評議会議長つまり国家元首になっている。

1926年、キューバのビランで、スペインのガリシア人移民で裕福な農場主の息子として生まれる。
当初、バハナの公立学校に入学したが、私立のイエズス会の小学校で教育を受け、野球に熱中した。
性格は粗暴な面があり、1944年に最優秀高校スポーツ選手に選ばれる。
そして1945年にバハナ大学に入学し、法律を学ぶ。
法学を学ぶ一方、学生運動の指導者として台頭し、大学内外の政治闘争に参加した。

1947年にはドミニカ共和国を独裁政治から解放するため、その遠征隊に加わった。

1949年に大学を卒業し、バハナで弁護士になる。政治犯や貧しい人々のために才腕を振るった。

そして1952年、キューバでは時のソカラス政権にフルヘンシオ・バティスタがクーデターを決起し、政権掌握する。
バティスタはあらゆる反対派を押さえつけ、独裁体制を敷いた。*1

この独裁体制を打倒するため、カストロは1953年7月26日にキューバ南東部の港湾都市、サンティアゴ・デ・キューバのモンカダ兵営を襲撃した。

ここから革命家としての人生が始まった。
しかし襲撃は失敗の終わり、逮捕され、裁判に掛けられたが、彼は裁判で「歴史は私を無罪にするだろう」という自己弁論をおこなった。

結局恩赦によって釈放された後にメキシコに渡り、バティスタ政権を打倒するため、1955年にいわゆる「7月26日運動」を弟のラウルやチェ・ゲバラなど革命家82名で結成。

翌年の12月、82名はヨットでキューバに上陸、2年にわたるゲリラ戦の末、ついにバティスタ政権を打倒。
カストロは革命後、自ら首相に就任し、一党独裁体制を敷き、長期にわたり事実上の独裁者として君臨した。
しかし他国の社会主義政権で見られる指導者の肖像画や銅像は一切作られなかった。

革命政権は革命後さまざまな難局に直面したものの、カストロのカリスマ的権威や卓抜な指導力によって、それらを乗り切る。

カストロは国家元首である国家評議会議長、閣僚評議会議長、キューバ共産党第一書記、革命軍最高司令官を兼任し、国民との間に多大な信頼を寄せた。

その結果、名実ともに最高指導者の地位にあったものの、2006年に病気により、権限を暫定的に弟のラウルに委譲。

2008年に国家評議会議長を辞任した。


*1 バティスタ政権は実質上アメリカの傀儡政権だった。

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