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【バトル・オブ・ブリテン】 †
第二次世界大戦中に行われたイギリス本土に対するドイツ軍による攻勢対航空作戦及び、イギリス軍による防勢対航空作戦。
ドイツは1940年の5月に開始した電撃戦によってわずか1ヶ月程度でフランスを制圧し、大陸に駐留していたイギリス軍も壊滅させた。
ドイツはこれによりイギリスが講和を求めてくると予想していたが、ウィンストン・チャーチル首相が徹底抗戦の意思を示したため、イギリス本土への上陸侵攻を計画(アシカ作戦)した。
上陸戦を成功させるには航空優勢の掌握が必要だとして、7月ごろにはドーバー海峡付近を往来するイギリスの船舶に対して攻撃を仕掛け、数に劣るイギリス空軍(RAF)を消耗戦におびき出そうとする作戦に着手した。
イギリスは船舶を犠牲にしてでもこの消耗戦を避けようとしたが、質・量ともに圧倒的なドイツ空軍の前に防戦一方で、8月中旬にはいよいよ本土爆撃を許すまで消耗していた。
ドイツ空軍はその後も軍事基地や軍需工場などを目標として猛爆撃を加え続け、9月に入る頃にはイギリス空軍は壊滅寸前に陥っていた。
ところが、9月7日以降、ドイツはベルリンに空爆を受けた報復として突如ロンドンを含む都市部に目標を移したため(ザ・ブリッツ)、イギリス空軍は爆撃の及ばない内陸に軍事施設を移設するなどして部隊を建て直し抵抗を続けることができた。
一方、ドイツ側は爆撃目標が遠くなるにつれて戦闘機による護衛もままならなくり次第に損害を増やしていった。
首都が空襲されたことによって背水の陣を覚悟したイギリス空軍の抵抗は凄まじく、ドイツ軍の爆撃作戦が次第に封じ込められてしまったため、アシカ作戦は無期延期されることとなった。
バトル・オブ・ブリテンはその名の通りイギリスの命運をかけた戦いであり、後にイギリス国防省の戦史にもその名を刻むこととなった。
また、レーダーを使用した近代防空戦闘のさきがけであり、戦後、各国における防空体制の構築に大きな影響を及ぼした。