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*&ruby(よんごーよんななたいせい){【45/47体制】}; [#p27a27d9]
1970〜1980年代、日本政府が国内航空会社の事業範囲について定めた産業保護政策の通称。~
名称は、この政策が昭和45年(1970年)に閣議で了解され、昭和47年(1972年)に運輸大臣(現:国土交通大臣)からの通達により実施されたことに由来する。~
(後述のとおり)航空各社に対する拘束力が強かったため「航空憲法」とも呼ばれていた。~
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[[第二次世界大戦]]後の一時期、アメリカをはじめとする[[連合国>連合国(第二次世界大戦)]]の占領政策により、日本人は[[航空機]]の設計・製作・運用といった[[航空]]に関わる諸分野への関与を禁じられていた((この政策は「大学の授業からも『航空工学』を削除する」など、徹底したものであった。))。~
しかし、1950年代になって[[朝鮮戦争]]と再軍備([[警察予備隊]]・[[海上警備隊]]創設)などによってこの禁は解かれ、1951年創業の[[日本航空]]((同社は公式には「特殊法人」になった1953年を創業としている。))、翌年創設の「日本ヘリコプター輸送」「極東航空」(後にこの二社は合同して[[全日本空輸]]となる)など、日本人の資本による民間航空会社が多数生まれることになった。~
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以後、政府・運輸省(現:国土交通省)は「航空産業の健全な発展」を名目として事業の集約化を目指した諸施策を遂行し、業界側も「将来の過当競争を防止し、業界の健全な発展を目指す」ため自発的に統合・再編を行っていた。~
その結果、1960年代半ばの時点で、[[旅客機]]を擁して定期旅客運送事業を行う会社は「日本航空」「[[全日本空輸]](全日空)」「東亜航空」「日本国内航空」の4社に集約されていた。~
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1965年、運輸省の航空審議会は運輸大臣からの「わが国定期航空運送事業のあり方について」という諮問に対して「国内線を運航する企業の経営基盤強化」「定期航空運送事業を営む事業者は国際線1社・国内線2社が望ましい」とする答申を提出。~
これにより、日航は日本国内航空を、全日空は東亜航空を合併する方向が定められた。~
しかし、政府の目論見に反して日本国内航空と東亜航空が合併を模索するようになったため、1970年に運輸政策審議会が「今後の航空輸送の進展に即応した航空政策の基本方針」についての答申を提出。これを受けて、同年11月に次のような閣議了解が出された。~
-需要の多いローカル線は、原則として2社で運航する。
-国際定期路線は、原則として(日本国の[[フラッグキャリア]]である)[[日本航空]]が一元的に運営。~
ただし、近距離路線については日航・全日空の提携のもと、余裕のある[[機材]]を活用して行う。
-貨物専門航空については、有効な方法を今後早急に検討する。

そして、1972年に出された運輸大臣通達により、以下のように事業範囲が割り振られた。~
:日本航空|国際線及び国内幹線(([[羽田>東京国際空港]]〜[[伊丹>伊丹空港]]・[[千歳>千歳空港]]・福岡の各路線。なお、当時[[中部>中部国際空港]]・[[関空>関西国際空港]]・[[新千歳空港]]は未開港。))の運航。国際航空貨物輸送対策を行う。
:全日本空輸|国内幹線・ローカル線を運航。近距離国際チャーター便の充実を図る。
:東亜国内航空(後の[[日本エアシステム>JAS]])|主に国内ローカル線を運航。

以後、これを軸として国内航空各社の事業分野が確定したが、1970年代末にアメリカで航空業界の規制緩和が始まり、路線参入の自由化と競争による運賃の値下げなどが実現。わが国でもこれを望む声と圧力が高まっていった。~
こうした中、政府は1985年に「45/47体制」を抜本的に見直し、「安全運航の確保を基本としつつ、企業間の競争を通じて、利用者の要請に応じたサービスの向上、経営基盤の強化、国際競争力の強化などの実現を目指す」方針に転換することとした。~
これによって「全日空・日本エアシステム((その後、日本航空と経営統合されて「日本航空ジャパン」となったが、2006年に「日本航空インターナショナル」と統合されて法人格消滅。))の国際線への参入」「国内主要線の複数社参入」「日本航空の完全民営化と準幹線への参入」が認められ、45/47体制は終焉を迎えた。


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