【冷戦】(れいせん)

Cold War.

第二次世界大戦終結以降、20世紀後半における世界情勢を端的に表現する言葉。
アメリカの政治家・企業家であるバーナード・バルークの命名による。

世界全体が共産主義(東側)と資本主義(西側)の陣営に別れ、イデオロギーを軸として対立していた時代である。
しかし、両軸の中心であったソビエト社会主義共和国連邦・アメリカ合衆国がそれぞれ国家総力戦に移る事はなかった。
両陣営は政治的・スパイ的な浸透と係争地における限定戦争を繰り返したが、最後まで決定的な破局に至る事はなかった。

発端

バルトのシュテッティンからアドリアのトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。
中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。

                         ―――ウィンストン・チャーチル

共産主義勢力はそもそもその政治的発端であるロシア革命の時代から極めて攻撃的・排他的な異端思想であった。
しかしロシアから生じたソビエト連邦は動乱の20世紀を踏破し、第二次世界大戦を終える頃には超大国へと成長していた。
このため、冷戦の始まりは第二次世界大戦後の秩序を規定する事となったヤルタ会談と見るのが定説である。

ヤルタ会談ではドイツの東西分割・ソ連の対日参戦・朝鮮半島の南北分割、さらには千島列島や樺太のソ連による占領などが取り決められた。
この交渉の過程で米英とソ連との間にはで相互不信が芽生え、欧州の戦後処理をめぐる対立関係が醸成されていった。

1946年、英国首相の座から退いたウィンストン・チャーチルはアメリカで上記のように「鉄のカーテン」に言及。
翌年1947年にはアメリカのトルーマン大統領が共産主義封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」を展開。
復興途上や内戦下にあった各国が二大陣営の陣取りゲームのゲーム盤と化し、ここに冷戦の構造が確定的になった。

1948年〜1949年、米英仏の通貨改革に抗議したソ連が、米英仏が占領する西ドイツの「飛び地」・西ベルリン一帯を封鎖。
この「ベルリン封鎖」によってインフラが麻痺した西ベルリンの市民は飢餓に直面、アメリカによる緊急支援によってかろうじて命脈を繋いだ。
ベルリン封鎖は1年で解除されたが、これによってドイツは東西分裂を避けられなくなった。
1949年、米英仏の占領地帯が「ドイツ連邦共和国(西ドイツ)」、ソ連の占領地帯が「ドイツ民主共和国(東ドイツ)」と分断された。

また、1949年にアメリカは西欧12カ国と「北大西洋条約機構」(NATO)を設立。
ソ連はこれに対抗し、1955年に東欧7カ国と「ワルシャワ条約機構」を設立した。
この一連の流れで、東西ヨーロッパは思想的にも経済的にも軍事的にも米ソ陣営に二分された。

朝鮮半島では北緯38度線を境として分割・占領され、南は資本主義の「大韓民国」、北は共産主義の「朝鮮民主主義人民共和国」となった。

1950年代

1950年6月、北朝鮮は武力による朝鮮半島統一を図って38度線を越境、朝鮮戦争(1950年開戦〜1953年休戦)が始まった。
この戦争は民族間の戦争から世界を巻き込む国際紛争に発展し、米ソ間の代理戦争となった。

このころ、アメリカの独占は1949年のソ連の原爆保有により崩れた。
それどころか、ソ連はアメリカに先んじて水素爆弾の開発に成功し、核の優位はアメリカからソ連に移った。

1953年、ソ連の指導者スターリンの死去に伴って朝鮮戦争は休戦、第1次インドシナ戦争も終結。
アメリカ側は緊張緩和を受け入れる姿勢を見せ、1955年に「ジュネーブ会談」が開かれた。
この緊張緩和は「雪解け」と呼ばれ、世界から歓迎された。

この頃、ソ連は宇宙開発にも着手し、1957年に世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。
このロケット技術は当然ながら軍事転用され、ICBMの実験に成功した。
これらのことは西側諸国に大きな衝撃を与え、いわゆる「スプートニク・ショック」が起きた。

1960年代

1961年、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは就任早々にソ連への強硬姿勢を示す。
ソ連指導者のニキータ・フルシチョフはこれに対抗し、いわゆる「ベルリンの壁」を構築した。
また、ソ連は数十メガトン級の水爆実験を連続して行い、ソ連の優位を示した。

1959年、共産革命が起きたキューバにソ連がミサイル基地を構築。
対するケネディ大統領はミサイル搬入を阻止するためにキューバ海域を海上封鎖するという措置をとった。
この「キューバ危機」は全面核戦争の危機として全世界を騒然とさせたが、ソ連側の譲歩により危機は回避された。

キューバ危機を経て、米ソ両陣営は明らかに国家総力戦を忌避、相互確証破壊を念頭におく「デタント」の時代が始まった。
東側陣営で中国とソ間との間で軋轢が生まれた一方、西側もフランスが独自路線を取ってNATOから軍事的に脱退。
両陣営の紐帯は徐々に緩み始めた。

1970年代

1969年、西ドイツ首相ヴィリー・ブラントは、東欧の共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開。
1970年には分割後始めて東西ドイツの首脳会談を実現し、「ソ連・西ドイツ武力不行使条約」を結ばれ、西ドイツとポーランドが国境承認条約を結んだ。
1972年には「東西ドイツ基本条約」を結び、東西ドイツは互いに国家として承認した。

これを受け、米ソ間でも1972年に、戦略兵器制限交渉(SALT)の合意が成立。
また、アメリカのニクソン大統領が訪中するなど外交交渉が活発化し、1979年に米中の国交が回復した。

欧州では1975年、ヘルシンキに欧州東西35カ国が集まって「ヨーロッパ安全協力会議」が行わる。

この一連の流れで、緊張緩和は最高潮に達した。

1980年代〜終結

1981年、アメリカのロナルド・レーガン大統領はソ連のアフガニスタン侵攻をソ連を非難。
米ソ両陣営は急速に緊張状態に戻り、一時期は「新冷戦」とも囁かれた。

しかし、1985年に就任したソ連最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフは改革路線(ペレストロイカ)を推進。
国内外への情報公開(グラスノスチ)も進め、アフガンからも撤退した。
これに呼応してアメリカも態度を軟化させ、1987年に中距離核戦力全廃条約が調印された。
さらに1989年、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュは軍縮を断行。緊張緩和を急速に進展させていった。

そして1989年。東欧諸国で市民の蜂起による民主化運動(東欧革命)が発生。
この流れはソビエト本国にまで波及するに至り、共産主義諸国の政権が次々と自壊し、東側陣営は瓦解。

これに伴い、地中海のマルタ島での「マルタ会談」で米ソ両陣営が共同で「冷戦の終結」を宣言するに至った。

残滓

イデオロギーとしての共産主義は未だ滅びておらず、アジアを中心に今なお根強い影響力を保持している。
しかし共産主義は国際的影響力と思想の統制を喪って久しく、その実践者は散逸しつつある。

残存する共産主義国家は全てソビエトからの教導(と物質的援助)を喪ったため、路線転換を余儀なくされた。
旧共産圏のみでの再結集は事実上不可能であったため、程度の差こそあれ、全ての国家が資本主義へ迎合している。
共産主義に基づいて管理される自由市場、という新たな経済制度を採用する事の是非は未だ定かでない。

一方、旧西側陣営においても、共産圏の崩壊は大きな社会的波紋を広げている。
冷戦時代、資本主義国家の多くは「貧困層に共産主義の第五列が浸透する」危険性を考慮し、社会福祉に多大な労力を払っていた。
しかし冷戦終結後、その必要は薄れたと考えられ、グローバルな経済競争を念頭に置く「新自由主義」が勢力を伸ばしている。
この新自由主義に対しては「貧富の格差を拡大させた」とする批判が多く、その票田の多くが共産主義的な勢力に吸収されている。

また、東西両陣営が影響力を投資しあうグレートゲームの盤面と化していた「第三世界」は、冷戦終結と共に急激に衰亡し始めた。
なんとなれば、そうした国々は国家運営の多くを両陣営が投じた援助に依存していたためである。
この援助は「第三次世界大戦」での戦略的優位を得るためのものであったため、必然、冷戦終結を機に第三世界への援助は退潮。
取り残された国の多くが政治的均衡を喪失し、経済危機・治安悪化・内戦などの危難に沈んでいった。
そうした国々のいくつかは制御不能なテロリストを輩出するようになり、それはやがて国際化し、新たな脅威となっていく。


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