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【硫黄島】 †
東京から南に約1200km離れた太平洋上にある、日本領の火山島。
かつては「いおうじま」が公式な呼称*1であったが、2007年以降、国土地理院・海上保安庁では「いおうとう」と呼称している。
東西8km、南北4kmの火山列島(硫黄列島)中最大の島で、行政上は東京都小笠原村に属している。
地下に無数の不発弾や遺骨が埋まっていて回収困難なため、一般人の上陸は原則として禁止されている*2。
海上自衛隊および航空自衛隊の基地が設営されている他、戦没者の慰霊祭においては一般人の上陸も許可される。
海風や台風のため基地施設の改修が常時行われており、その作業に従事する建設業者の住宅施設も存在する。
また、防災上の観点から火山観測が必要とされるため、国土地理院や気象庁の職員が定期的に来島する。
民間に開放された空港は存在しないが、基地内の飛行場は軍事用にも関わらず3レターコードが設定されている。
上記の理由で定期的な往来がある他、民間機の緊急着陸や、周辺の離島から急病患者を緊急搬送する際に利用される事がある。
近隣住民への配慮がほぼ不要なため、日本本土では実施出来ない軍事演習を目的として在日米軍・自衛隊に活用されている。
実際に機雷を撒いての掃海訓練、夜間離発着訓練などの航空演習・実験飛行などが行われている。
また、日本で唯一、陸・海・空の三自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもある。
硫黄島航空基地 †
上記のとおり、硫黄島の飛行場は自衛隊の管理下にあり、海上自衛隊・航空自衛隊が部隊を駐留させている。
駐留部隊は次の通り。
飛行場の空港情報は以下の通り。
戦災について †
硫黄島は太平洋戦争末期に戦場となった事で特に有名。(硫黄島の戦い)
昭和20年2月に、アメリカの上陸部隊約61,000人・後方支援約220,000人(海兵隊第3・第4・第5海兵師団主力)と、日本軍約20,000人(陸軍小笠原兵団(第109師団等)主力)との間で戦闘が発生している。
日本軍は一ヶ月に渡って死守を続け、玉砕・占領された。
最終的な被害は死者約20,100人・負傷者約1,000人。
一方、アメリカ側も一連の上陸作戦で死者約6,800人・負傷者約21,800人という甚大な出血を強いられている。
占領後、島は本州爆撃の中継および護衛戦闘機の基地として整備・使用されている。
終戦後もアメリカの統治下で空軍基地として運用されつづけ、昭和43年(1968年)6月26日に日本に返還された。
*1 アメリカ海軍が使用している強襲揚陸艦「イオージマ」の名前もこれに由来する。
*2 そのため、島に滞在する人々は島の住所で住民登録をすることができず、本土側に住民票を置いている。
郵便や宅配便も直接送ることができないため、島に滞在する人々への物資や郵便物は、海自では「厚木航空基地気付」、空自では「入間基地気付」として送付し、そこから自衛隊内部での搬入扱いとして送られる。
*3 指揮命令系統上では入間基地の分屯基地扱い。
*4 平行誘導路であるが、緊急時には滑走路としても利用可能。