【日本航空123便墜落事故】(にほんこうくうひゃくにじゅうさんびんついらくじこ)

1985年(昭和60年)8月12日夕刻、大阪(伊丹空港)行き123便として羽田空港を離陸した日本航空B747SR-46旅客機シリアルナンバーJA8119・乗客/乗員計524人が、本来の飛行コースを外れて群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)山中に墜落、520人が死亡した大事故。
(2008年現在)単独の航空機による事故としては世界最多の犠牲者を出した事故となり*1、また、(国民的人気歌手や有名プロ野球チームの運営会社社長など)複数の著名人が搭乗していて犠牲になったこともあり、当時の日本社会に重大な衝撃を与えた事件ともなった。

捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁(現・防衛省)の発表やNHKによる「墜落現場」の報道が二転三転したうえ、悪戯や誤報に惑わされた各機関が独自の憶測で行動してしまい、連係がとれずおおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。
また、事故機の積荷の中に入っていた医療用の放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウラン?などによる周辺への放射能汚染の警戒も、捜索隊の到着が遅れた一因となった。

事故の原因は
「以前に当該事故機が伊丹空港で着陸に失敗、滑走路に機体後部が接触する『しりもち事故』を起こした際*2、与圧された客室との間にある圧力隔壁が損傷。
事後にボーイング社で行われた隔壁の修理が不完全なまま日航へ戻されたため、通常の運航で離着陸を繰り返しているうちに蓄積された歪みが限界点を越えて破損し、それにより機体の操縦系統(垂直尾翼やハイドロプレッシャー(油圧操縦)システム)が破壊されて操縦不能になったもの」
と発表されたが、これに対して異論を唱える声が当時からあり、それに関する書物もいくつか発表されている。
(これらの異論の中には、事故発生時に太平洋上で訓練を行っていた自衛隊*3在日米軍の関与*4をほのめかしているものもある)


*1 この事故以前の日本国内で最多の航空機事故死者数は1971年7月30日に発生した「全日空機雫石衝突事故」の162名だった
*2 原因はパイロット操縦桿の操作を誤り、機体が通常の着陸角度より上に上がりすぎたため。この事故で3名が負傷している
*3 実際、最初に圧力隔壁の破壊が起きたとき、現場の直下の相模灘で海自護衛艦「まつゆき」(DD-130)が公試運転中で、機体から脱落した部品の一部が同艦に回収されていた。
*4 訓練中の戦闘機地対空ミサイル・艦対空ミサイルの不時発射無人機の空中衝突などの説があげられていた

トップ 新規 一覧 単語検索 最終更新ヘルプ   最終更新のRSS