【三笠】(みかさ)

明治時代中期の日露戦争で活躍した日本海軍の戦艦。姉妹艦に敷島、朝日、初瀬がある。

また、英国海軍の「ヴィクトリー」、アメリカ海軍の「コンスティテューション」と並んで「世界三大記念艦」とも呼ばれている。

当時、中国大陸・朝鮮半島の支配権を巡ってロシアと対立していた日本政府は、強力なロシア艦隊に対抗すべく、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻からなる「六六艦隊」という艦隊整備計画を策定。この一環として英国に発注・建造されたのが同艦である。

本艦の設計・建造に当たっては当時最新鋭の造艦技術が積極的に取り入れられたが、特に防御甲板には鋼鉄とニッケルの合金「クルップ鋼」を採用、装甲防御が強化された。

また、本艦(とその姉妹艦)以降の日本戦艦は艦幅の増大によりスエズ運河の通過が不可能となったが、このことにより、ロシア艦隊は本艦に対抗できる有力な戦闘艦をアフリカ大陸の喜望峰周りで回航させざるを得なくなった。

1904年の日露戦争には連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督の乗艦として参加。1905年5月27日の対馬沖海戦ではロシア・バルチック艦隊を迎え撃ち、艦隊の集中砲火を浴びながらもよくこれを撃破した。

この戦いの直後、佐世保軍港停泊中に水兵の失火から火薬庫に引火して沈没着底するが、沈没地点の水深が浅かったため引き揚げられて現役復帰。

「弩級」「超弩級」…と戦艦が進化する中で旧式化しつつも現役にありつづけた本艦だったが、1921年のワシントン海軍軍縮会議で廃棄予定艦のリストに載せられてしまう。 このことから、当時の国内で廃棄を惜しむ声が高まり、会議参加国との協議の結果、「再就役不可能な状態にする」ことを条件に記念艦として保有することが認められ、横須賀の白浜海岸に曳航、周囲の海面を埋め立てた状態で固定の上保存されることになった。

その後、第二次世界大戦の敗北に伴って進駐してきた連合国軍の指示により、砲などの武装が撤去され、また、敗戦後の混乱で金属部品が持ち去られたり、上甲板にダンスホールや水族館が設置されたりするなど、一時期極度に荒廃していたが、1958年から復元工事が行われ、1961年に完工。記念艦として再度公開が開始された。

1992年には世界船舶基金財団から「海事遺産賞」を受賞した。


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