【阿賀野】(あがの)

旧日本海軍が1940年代に就役させた軽巡洋艦
姉妹艦に「能代(のしろ)」「矢矧(やはぎ)」「酒匂(さかわ)」の3隻がある。

本艦は当初、大正時代に建造された(通称「5500トン級」と呼ばれる)旧式軽巡洋艦の老朽代替として開発された。
これら旧式軽巡洋艦は、八八艦隊計画に伴って建造されたため、短期間に14隻と多数が就役して所要数が満たされていたこともあって、日本海軍はその後十数年間、軽巡洋艦の戦力整備を積極的に行わなかった。

とはいえ、この間何もしなかったわけではなく、「夕張」、「最上」級(6隻*1)といった艦の建造は行われていた。
しかし、「夕張」は艦体小型化のテストベッド的な性格が強い、事実上「大型駆逐艦」というべき艦であった。
一方の「最上」型は、ロンドン海軍軍縮条約で決められた重巡洋艦の保有制限に対処すべく、重巡洋艦と同じ船体に15.5サンチ砲を載せて「軽巡洋艦」の体裁にしたものであった。*2

日本海軍における軽巡洋艦の二大任務であった「水雷戦隊旗艦」「潜水戦隊旗艦」は、5500トン級各艦が随時交代しつつ務めていたが、1930年代後半になってこれらの艦の老朽化・陳腐化が進んだため、海軍はその代替として、これら二つのミッションのいずれかにカスタマイズされた艦を発注することにした。
このうち、前者の「水雷戦隊旗艦」用として開発されたのが本艦である。*3


本艦の設計に当たっては、「水雷戦隊旗艦」に求められた「戦隊に属する十数隻の駆逐艦を率い、先陣を切って敵の主力艦隊に突入、自らも敵艦に魚雷を叩き込む」という任務への対応が最優先された。
そのため、魚雷兵装は4連装発射管2基を艦の中心線上に置き、一度に片舷8本の酸素魚雷が撃てるようにした。
また、水雷戦隊の主任務であった「夜間肉薄雷撃」に対応すべく、「夕張」の建造で得られた経験を生かして艦体もコンパクト化が図られていた。

しかし、その反面で主砲は、軽巡共通の15.5サンチではなく15.2サンチ砲*4とされ、高角砲も連装2基のみとされるなど、1940年代の大型水上戦闘艦艇としては大幅に能力バランスの悪い艦になってしまった。


本艦型は、日米開戦翌年となる1942年より相次いで就役したが、航空主兵主義という戦術思想が支配した太平洋の戦場では、いずれの艦も、期待された能力を発揮する機会に恵まれず生涯を終えていった。*5

スペックデータ

排水量
基準/公試
6,652t/7,710t
全長174.50m
全幅15.20m
喫水5.63m
機関ロ号艦本式罐・重油焚×6基
艦本式タービン×4基 4軸推進
燃料搭載量重油1,420t
機関出力100,000hp
最大速力35.0kt
航続距離6,000nm/18kt
乗員730名
兵装四十一式50口径15.2mm連装砲×3基
九八式60口径7.6cm連装高角砲×2基
九六式3連装25mm機銃×2基
61cm4連装魚雷発射管×2基
装甲60mm(舷側)
20mm(甲板)
搭載機水上偵察機×2機
装備射出機×1機


同型艦

艦名主造船所起工進水就役除籍備考
阿賀野佐世保工廠1940.6.181941.10.221942.10.311944.3.311944.2.17戦没
能代横須賀工廠1941.9.41942.7.191943.6.301944.12.201944.10.26戦没
矢矧佐世保工廠1941.11.111942.10.251943.12.291945.6.201945.4.7戦没
酒匂佐世保工廠1942.11.211944.4.91944.11.301945.10.51946.7.2沈没*6

*1 5・6番艦(「利根」「筑摩」)は設計変更を受け、最初から重巡洋艦として竣工した。
*2 後に20.3サンチ砲に載せ替え、名実共に重巡洋艦となった。
*3 後者は「大淀」級として開発され、2隻が発注された。
*4 しかも「軽量化のため」として弾薬装填も人力式だった。
*5 特に「酒匂」にいたっては、就役した時に既に連合艦隊の水上艦戦力が壊滅し、組織的戦闘を行える状態でなくなっていた。
*6 「クロスロード」作戦(ビキニ環礁における原爆実験)の標的艦として使用。

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