【ミュンヘンオリンピック事件】(みゅんへんおりんぴっくじけん)

1972年9月、旧西ドイツで発生したテロ事件。
パレスチナ過激派「ブラック・セプテンバー」のメンバー7名が、ミュンヘンで開催中だった夏季オリンピックの選手村を襲撃、イスラエル代表選手団11名を人質に立て籠った。

犯行グループは選手村を襲撃し2名を殺害した後、イスラエル政府に対し、同国に収監されているパレスチナ人234人の釈放を要求した。
これに対し、西ドイツ政府は、自国民救護のために出動準備をしていたイスラエル軍特殊部隊の介入を拒否して自力解決を選択。
最終的に警察との銃撃戦になり、3名を逮捕するも犯人8名のうち5名、人質全員と警察側数人(脱出機の操縦士及び警官1人)が死亡する最悪の結果となり、ミュンヘンオリンピックは一時中止となった。

この事件では、テロ対策における様々な教訓が残された。
以下にその一例をあげる。

  • 狙撃手の中には、実際に人間を撃てなかった者がいた。
    それまで、狙撃手の射撃訓練には紙製の円形標的が用いられていたが、訓練で作られたイメージと実際の標的となった人間とでは大きな違いがあり、現場で引き金を引くことが出来なかった。
  • 配置された狙撃手の数が犯人の数より少なかった。
  • 狙撃手の中には、「命令に従うこと」にためらいのある者も少なくなかった。
    これはドイツが第二次世界大戦に敗れた後、占領軍として進駐した連合国が「戦争犯罪人」として逮捕した多くのドイツ軍将兵を「軍の命令ではなく、『自己の良心』に従わなかった」として裁判にかけて処罰しており、また、連合国の占領政策においてもそのことを「否」とする教育が行われていたことから、その心理的影響が大きかった。
  • 「オートマチック狙撃銃」の必要性が取りざたされた。
    この事件の際、警察が使用した狙撃銃はボルトアクション方式だったため、狙撃に失敗した後、排莢→次弾再装填→発射の間に大きなタイムラグが生まれ、相手に逃走の余裕を与えてしまうことになった。
    この事件の後、H&K社はオートマチック式狙撃銃「PSG-1」の開発に着手することになる。

この事件を教訓とし、後に西ドイツ政府は各種の法令を制定し、対テロ特殊部隊?GSG9」を創設した。
同隊は1977年10月に起きた「ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件」に出動してこれを無事に解決、その能力を実証した。


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