【ペントミック】(ぺんとみっく)

Pentomic.(「5つ」「5番目」を意味する"Penta"と「原子力」を表す"Atomic"の合成)

冷戦初期の1950年代、アメリカ陸軍が考案した歩兵師団の編制法。
戦術核兵器が実用化された直後に考案された、核攻撃を受ける事を想定した編制である。
正式には「ROCID再編成型歩兵師団」という。

アメリカ陸軍では1960年まで試験的に運用されたが、その過程で多数の問題点(後述)が浮上。
1963年には新たに考案された「ROAD(Reorganization of the Army Division)師団」編成に改編され、過去の遺物となった。

しかし、フランス陸軍陸上自衛隊ではこれに類似の編制を採用し、現代まで継承している。
また、オーストラリア陸軍でも一時期、これに類似の編制を取っていたが、アメリカに倣って元に戻している。

編制の概要

陸軍の古典的な部隊編成では、1個師団は数個の連隊、1個連隊は数個の大隊、1個大隊は数個の中隊の集合である。
ペントミックではこのうち「連隊」及び「大隊」の単位を廃し、「連隊戦闘群」に置き換えた。

ペントミック編制の1個師団は、5個の連隊戦闘群を指揮下に置いていた。
1個の連隊戦闘群は5個歩兵中隊(中隊長は大尉)、1個迫撃砲中隊を中核とする。
砲兵戦車工兵航空機などは必要に応じて配分・再配置され、作戦中は個々の連隊戦闘群の指揮下に入る。

戦闘の展開は1個師団まとめてではなく、5個の連隊戦闘群として分割して行われる。
大抵は地理的にもそれぞれ離れた場所に兵站拠点を置き、連携はするが合流はしない。
これにより、戦場で戦術核が使用された際の被害規模を1個連隊戦闘群までに抑える事ができる――つまり、「5発目の核(ペントミック)」までは戦える、とされた。

指摘された問題点

「核の恐怖」という時代背景から鳴り物入りで導入されたペントミックであるが、実際に運用をしてみると種々の問題点が指摘された。

C3Iへの負担増

ペントミック編制は「大隊」を廃して連隊長が中隊長たちを直接指揮するため、指揮官の負担が増大する可能性が指摘された。
連隊戦闘群は最低7個中隊、これに戦車工兵近接航空支援などが加われば10個中隊以上を同時に指揮する。
これほどの数の戦闘ユニットを1人の指揮官と参謀団が管理掌握できるかは、疑わしいものだった。

特に1960年代当時のアメリカ陸軍にとって、これはかなり深刻な問題だった。
当時は第二次世界大戦朝鮮戦争後の世代交代の時期であり、実戦経験者のほとんどは戦死するか予備役に退いていた。
つまり尉官・佐官層の多くが実戦を経験しておらず、その指揮能力に対して上層部は大きな疑問を抱いていた。

各個撃破の危惧

ペントミックは、本質的に戦術核から逃げ回るための散兵戦を前提にした編制であり、国家総力戦における正面対決には適さなかった。
孤立した連隊戦闘群に対して通常の師団規模の部隊が攻撃してくれば、各個撃破される可能性が濃厚だった。

将兵の士気への影響

このペントミック編制は、現場の将兵からは大いに不評であった。

近代の世界的常識として、兵士は入隊から退役まで同じ連隊に所属し続けるものである(戦時中に連隊が全滅した場合は例外だが)。
そして退役後も同じ連隊出身の予備役は地元の地域社会の中で結びつき、会合を持ち、結束し続けるものだった。

当時の兵士にとって、自分達の属する軍は「国軍」ではなく、特定の「連隊」を指すものだったといえる。
そして、ペントミック編制はこの伝統を土足で踏みにじった。

これは軍政が無神経だったというより、連隊の結束を意図的に破壊しようとした可能性が高い。
実際、アメリカ陸軍の連隊制はペントミック廃止以降も有名無実化の一途を辿り、現在では一部の例外*1を除いて形骸化されている*2
各連隊が積み重ねてきた伝統は、解体された後の大隊単位で継承されるのが原則となり、元に戻る事はなかった。

つまるところ、これは政争の結果である。
連隊ごとに結束する予備役は巨大な票田であり、それは民主主義議会政治の必然として他派閥との敵対関係を醸成した。
平和主義者との抗争の末、民意による暴力的弾圧と政治的圧力に屈して離散を余儀なくされたと見る向きもある。


*1 第75レンジャー連隊第160特殊作戦航空連隊など。
*2 現在のアメリカ陸軍では、師団隷下の「旅団戦闘団」が連隊と同格の扱いになっている。

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