【ベレンコ中尉亡命事件 】(べれんこちゅういぼうめいじけん)

1976年9月6日、函館空港に当時のソ連軍の最新鋭戦闘機MiG-25が強行着陸し、パイロットのベレンコ・ビクトル・イワノビッチ空軍中尉がアメリカに亡命した事件。

ベレンコ中尉はウラジオストックの北東180kmにある空軍基地を離陸して訓練空域に到達した後、追撃を避けるために墜落に見せかけた急降下をし、低空飛行で北海道を目指した。
一方、航空自衛隊のレーダーサイトは午後1時11分にベレンコ機を捕捉、同20分には千歳基地の2機のF-4EJがスクランブルしたが、ルックダウン能力の無いもしくは低かったF-4EJは高度を下げたベレンコ機を見失い、また13時26分には各所のレーダーサイトも同機をロストした。
(これは当時のF-4EJが政治的関係により爆撃照準用ソフトウェアと一体化したFCSコンピューターを撤去し、米空軍のF-4Eに比べ遙かに劣るルックダウン能力しか有していなかったためである。これをきっかけにF-15Jでは爆撃照準用ソフトウェアを残したままライセンス生産されている。)
ベレンコ中尉はスクランブルをかけてくるはずのF-4に誘導されて千歳基地?に着陸する予定だったが、一向にF-4が姿を現さなかったため、燃料の関係から千歳基地行きを断念、候補の八雲飛行場と函館飛行場のうち、「ナイキがいない」という理由で函館へと針路変更した。 1時50分ごろに函館空港へオーバーランして着陸したが、機体には特に損傷なく無事であった。

この亡命によって、ソ連軍ゲリラの侵攻を恐れた陸上自衛隊第11師団は内閣の承諾なしで臨戦態勢に入り、試射とは言え初めて自衛隊が本気で迎撃を行った。ただしその時にソ連群機と判断した機影は航空自衛隊の輸送機であることがL-90配属の隊員とそこからの問い合わせですぐに分かり、同士討ちと言う最悪の事態は避けられた。
その後も臨戦態勢はとられ続けたが、9月24日のC-5による輸送まで何事もなく、危惧されていた輸送機へのFIM-92による攻撃もなく、MiG-25は「函館の皆さんさようなら大変ご迷惑をかけました」の横断幕とともに函館の地を去っていった。

機体は百里基地へ搬送された後、日米の合同調査チームによって徹底的に調査された。最新鋭のMiG-25だけに、その調査結果に注目が集まったが、ペンタゴンのコメントは"MiG-25 is not so hot"(MiG-25は大したことなかった)であった。
11月15日、厳重な梱包を施され、残っていた燃料の一滴まで一緒にソ連の貨物船で返還された。

なおベレンコ中尉の亡命の理由はあまりに軍人としての待遇が悪かったためとされる。中尉は息子と妻の三人暮らしであり、月給は当時の金額で300ルーブル(約12万円)であった。 それに加えて、妻との仲が冷え切っていたことも理由とされている。

この事件で自衛隊のあまりにも脆弱な防空体制が明らかとなり、レーダーサイト?の低空目標探知能力の強化や早期警戒機E-2F-15Jの導入、F-4EJからF-4EJ改への改修などの改革が行われた。

ベレンコ中尉は渡米後は民間人としてしばらく職を転々としたあと、現在は起業して営業に飛び回る毎日を送っている。


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