【トンキン湾事件】(とんきんわんじけん)

1964年8月、南シナ海のトンキン湾*1で発生した、アメリカ合衆国とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間の武力衝突事件。
アメリカ軍ベトナム戦争へ本格参戦するきっかけになった、とされる事件である。

アメリカ政府は、1964年8月2日に海軍アレン・M・サムナー?駆逐艦「マドックス(DD-731)」が、トンキン湾の公海上を航行中に北ベトナム軍のものと思われるP-4型魚雷艇3隻から雷撃機関銃攻撃を受け、空母タイコンデロガ(CV-14)」に搭載されたF-8E「クルセイダー」の支援でこれを撃退したと発表した。
続く8月4日にも再び「マドックス」および援護のフォレスト・シャーマン?駆逐艦「ターナー・ジョイ(DD-951)」が雷撃を受けたと発表。
そして8月5日、これらの攻撃に対する報復として「タイコンデロガ」のF-8EA-4C「スカイホーク」および空母コンステレーション(CV-64)」搭載のF-4B「ファントム」が北ベトナムの魚雷艇基地などを攻撃した。

「ピアース・アロー作戦」と称されたこの軍事行動は、(後に西側諸国を代表する傑作戦闘機と称されることになる)F-4の初陣でもあった。

これに対し北ベトナム政府は、
「2日の雷撃は、マドックスが北ベトナム領海における諜報活動領土に対する砲撃などをおこなっていたことに対する自衛のための攻撃である」
「4日には雷撃そのものをおこなっていない」
などと反論した。

8月7日には連邦議会が大統領の戦時権限を認める決定、いわゆる「トンキン湾決議」を採択する。
それまではあくまで南ベトナム軍を支援する立場をとっていたアメリカ政府だったが、これをきっかけに北爆などの積極的な直接攻撃を行うようになり、ベトナム戦争は泥沼化への道を歩むことになる。

その後

戦争末期、ペンタゴンペーパーと呼ばれる機密書類が流出し、この事件はアメリカが参戦の口実を得るための陰謀であったとされた。
後年、事件当時の国防長官であったロバート・S・マクナマラは、8月4日の雷撃が存在しなかったことを認めている。

また、8月2日までの「マドックス」、及び近辺で行動していたアメリカ艦隊の動向については、
「当初から全面的にアメリカ側の陰謀だった」
「当時は領海を海岸から3海里とするか12海里とするかで国際的な論議があり、両国の間で食い違いがあった」
「実際に砲撃をおこなったのは南ベトナムの艦だったが、それがマドックスと誤認された」
など諸説がある。


*1 「トンキン」は漢字表記で「東京」となり、日本の東京湾と混同される恐れがあることから、現在のベトナムでは「バクポ湾」と呼称されている。

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