【キューバ危機】(きゅーばきき)

1962年10月、 共産革命を達成したキューバに、ソ連が弾道ミサイルを配備し、それを非難するアメリカと対立した事件のこと。
この事件は世界中を核戦争寸前の恐怖に陥れた。

概要

1959年、キューバの親米傀儡政権を倒した「7月26日運動」を率いるフィデル・カストロは、自らを長とする共産主義政権を打ち立てた。
キューバのすぐ北に位置するアメリカはこれを敵視し、米州機構からキューバを除名したり、経済封鎖をするなど、キューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどる。

このことからキューバは東側諸国の長たるソビエト連邦を頼り、ソ連はキューバへの支援を強化した。 カストロはアメリカによるキューバ侵攻に備え、ソ連に武器の供与を要求し始めた。
しかし、キューバへの武器供与はアメリカを刺激しすぎるとソ連は考え、1962年に武器供与の変わりに弾道ミサイルをキューバに配備することにし、カストロもこれに了承。ソ連の弾道ミサイルがキューバに配備され始めた。

1962年10月14日、アメリカ空軍のU-2がアメリカ本土を射程におさめる、準中距離弾道ミサイルなどの存在を発見。
22日、アメリカのケネディ大統領は「ソ連がキューバにミサイル基地を建設中」であることを公表し、ソ連にミサイル基地やミサイルの撤去を要求。
そして、ミサイル搬入阻止のため海上封鎖を実行すると声明を出した。
これに対し、ソ連はミサイル撤去などの要求を拒否、キューバも海上封鎖を非難した。
かくして海上封鎖は行われ、米ソは戦争寸前にまでいたった*1

しかしソ連首相ニキータ・フルシチョフの申し出で交渉が行われ、結果、アメリカがキューバに武力侵攻しないことを条件にソ連がミサイルの撤去に同意したため、核戦争の危機は回避された。

その後

その後、アメリカによるキューバ介入も減少し、冷戦はいわゆる「デタント」に向かっていく。
しかし、この問題の解決が当事者であるキューバの頭越しになされたため、カストロなどキューバの指導者たちはフルシチョフに不信を抱くようになり、のちにフルシチョフが失脚する遠因となった。


*1 このとき、ペンタゴンデフコンを準戦時体制であるデフコン2に引き上げた。
  現時点で、デフコンが2に引き上げられた唯一の例となっている。


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