【二・二六事件】 †
1936年2月26日に日本で勃発したクーデター。
実行犯は帝国陸軍の青年将校らと、その指揮下にあった部隊の将兵であった。
思想的背景 †
犯行に至った動機は、当時の陸軍将校内派閥「皇道派」の思想的暴走であった。
当時、日本国内は農村の経済的困窮により、貧困層の飢餓、人身売買に近い売春などの深刻な社会問題を抱えていた。
皇道派の佐官・尉官ら青年将校はそうした社会情勢を憂慮し、『国家改造』と称する運動を広め始めた。
文民統制の観点から言えば、この時点ですでに越権行為であり、本質的に暴動である。
とはいえ、農村出身の将校・兵士が見た『故郷の惨状』への憤りが不当なものであったかは意見の分かれる所だろう。
やがて、皇道派は諸問題の原因を『腐敗政治』である、と独自に定義。
政財界の重鎮が天皇の権威を借り、ただ私利私欲を満たすために国政を私物化しているのだと考え始めた。
この過激で攻撃的な主張は、自明な理由から有識者・有力者の反感を買い、政争における敗北をもたらした。
見識豊かな人材が離反していくに従い、残存支持者は被害妄想的に思想を先鋭化させ、破壊的カルトの様相を呈し始める。
そしてついに「腐敗した『君側の奸』を誅殺し、もって天皇陛下の親政を実現し民衆全てを救済する」と決意*1。
「昭和維新断行」「尊皇討奸」のスローガンを掲げてクーデターを企てるに至った。
後世の研究から結果論を述べれば、これは誇大妄想であったと言わざるを得ない。
実行犯は社会問題の背後関係について十分な知識を持たず、当然その対策など想像の埒外であった。
「陛下の御親政」に事後の成り行きを委ねていた点からも、彼らの政治的見識の浅さが伺える。
主な参加者 †
扇動を行った若手将校の下、以下の各部隊から合計1483名の将兵、および少数の民間人が参加した。
しかし、参加将兵のほとんどは計画を事前に知らされず、単に命令に従っただけだったという。
部隊名 | 上級部隊 | 士官 | 准尉 | 医官 | 下士官 | 兵 | 参加者総数 |
近衛歩兵第3連隊(皇居*2所在) | 近衛師団 | 2 | 1 | 0 | 2 | 57 | 62 |
鉄道第2連隊 (千葉県・津田沼駐屯地所在) | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | |
近衛師団司令部 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | |
歩兵第1連隊 (東京・麻布駐屯地*3所在) | 第1師団 | 5 | 0 | 3 | 21 | 428 | 457 |
歩兵第3連隊(同上) | 8 | 1 | 0 | 230 | 634 | 873 | |
野戦重砲兵第7連隊 (千葉県・国府台駐屯地所在) | 1 | 0 | 0 | 1 | 11 | 13 | |
歩兵第1旅団司令部 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | |
野砲兵第7連隊 | 1*4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | |
豊橋陸軍教導学校 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | |
飛行第12連隊*5 | 1*6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 |
主な被害者 †
- 岡田啓介
- 内閣総理大臣・予備役海軍大将。
天皇の大権を掣肘する「君側の奸」とみなされ襲撃を受ける。
いったんは死亡が報じられたが、辛うじて生還*7。 - 斎藤実
- 内大臣・元首相・子爵・予備役海軍大将。
天皇の側近であったため襲撃を受け、死亡。 - 高橋是清
- 大蔵大臣。
陸軍省の予算削減を図っていたために恨みを買い*8*9、襲撃を受けて死亡。 - 渡辺錠太郎
- 陸軍教育総監・陸軍大将。
天皇機関説*10肯定派であり、実行犯らと政治思想を違えていたため、襲撃を受けて死亡。 - 鈴木貫太郎
- 侍従長・予備役海軍大将。
枢密顧問官の地位にあったため、天皇の意思を妨げていたものと疑われて襲撃を受ける。
銃撃によって瀕死の重傷を負うものの、夫人の懇願により辛うじて一命を取り留める*11。 - 牧野伸顕
- 元内大臣・伯爵。
昭和天皇に厚く信任を受け、内大臣を退任する際に伯爵に陞爵している。
欧米協調主義者であった点と、人脈・派閥を通じた政治的影響力から標的となった。
旅館滞在中に襲撃を受け、警備の警察官・旅館の主人・使用人などが死傷するも、本人は生還。 - 後藤文夫
- 内務大臣。
警察機構を束ね、国内の治安維持を担当する内務省の長であったことから襲撃目標となる。
官邸を襲撃されるが、外出中のため難を逃れる*12。
政府・軍の対応 †
事件発生の翌日、27日に政府は東京一帯に戒厳を布告する緊急勅令を発布。
側近らへの襲撃、統帥権侵犯などに対し、昭和天皇は断固として武力鎮圧を命じた。
この時の表明として、
『朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ』
『朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ』
『朕自ラ近衛師団*13ヲ率ヰテ、此レガ鎮定ニ当タラン』
『自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ』
などの言葉が伝わっており、その激怒がどれほどのものであったかが伺える*14。
これと平行して、海軍は発生即日に対決姿勢を取り、武力鎮圧を想定して行動を開始。
横須賀鎮守府から派遣された海軍陸戦隊が東京に上陸し、連合艦隊は戦艦「長門」を旗艦とする第1艦隊を東京湾に回航させた。
重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第2艦隊も大阪湾内に展開し、騒動が西日本に波及した場合に備えていた。
これに対し、事件発生当初の陸軍は非常に曖昧な態度を取っていた*16。
しかし天皇の激怒を受けて鎮圧に乗り出さざるを得なくなり、28日午後には決起部隊を「叛乱軍」と規定。
同日午後5時8分に出された「奉勅命令」を楯に降伏を迫り、29日に決起部隊が投降して事態は収束した。
事件後 †
事件後の軍法会議により、17名に死刑判決、7名に無期禁固、22名に有期禁固の判決が下った。
末端兵卒・下士官の大半は法的な処罰こそ免れたが、多くは安全な本土から満州事変の前線へと異動させられた。
その後、反乱部隊将兵の大半が所属していた第1師団も恒久的な拠点を満州に移している。
また、この事件によって当時の岡田内閣が解散、廣田弘毅内閣が陸軍の影響力の下で組閣された。
この時、陸軍の要求で「軍部大臣現役武官制*17」が3年ぶりに復活し、軍部による政治介入が強化された。
*1 以前の「五・一五事件」で、時の首相であった犬養毅を殺害した海軍将校に死刑判決が下されなかったことを
「実行者達の維新実行の気概がお上のお心に達し、実行者達はお上から情状酌量を直々に賜ったのだ」
と思い込んでいたという。
*2 駐屯地は現在の北の丸公園あたり。
*3 大東亜戦争終結後、一時期米軍に接収されていたが、後に返還されて陸上自衛隊の檜町駐屯地(及び海上自衛隊・航空自衛隊檜町基地)となり、防衛庁本庁舎などが置かれていた。
現在は閉鎖され、跡地は民間に払い下げられて「東京ミッドタウン」となっている。
*4 陸軍砲工学校に学生として派遣されていた者。
*5 後の「飛行第12戦隊」。
*6 所沢陸軍飛行学校に学生として派遣されていた者。
*7 義弟の松尾伝蔵(内閣総理大臣秘書官・予備役陸軍大佐)が身代わりとなって殺害されている。
*8 元々、陸軍への予算配分は海軍の十分の一しかなかった。
*9 つまり「我々の邪魔をするのだから君側の奸に違いない」という理屈であった。
実行犯の思想的背景がいかに虚妄なものであったかを示す傍証と言えよう。
*10 大日本帝国の主権は法人としての「国家」そのものにあり、天皇は国家の最高意志決定機関であって主権者ではない、とする法学的解釈。
*11 後年、大東亜戦争終戦時の内閣総理大臣を務めることになる。
*12 その後、消息不明だった岡田首相の臨時代理を2日間務める。
*13 しかし実際には、同師団の一部部隊も反乱に参加していた。
*14 このことが影響したかどうかは不明だが、昭和天皇は後に長男の明仁皇太子が「皇族身位令」により軍に任官される年齢を迎えた時、軍籍を与えなかった。
また、教育係として陸軍の将校をつけることを拒否したという。
*15 3人はいずれも予備役大将で、斎藤内大臣は死亡し、鈴木侍従長は重傷、岡田首相は一時生死不明だった。
*16 陸軍内の皇道派将校が連帯責任で処罰されるのは明白であったため、多くの将校が自己保身に終始していたとされる。
*17 陸軍大臣及び海軍大臣は現役の将官から出すこととするもの。