Last-modified: 2017-01-13 (金) 21:50:46 (131d)

【長門】(ながと)

八八艦隊計画の第一段として1920年代に建造された、日本海軍超ド級戦艦
姉妹艦に「陸奥」がある。

列強各国の主力戦艦に差をつけるため、初めて口径41センチという当時の世界最大の主砲を取り付けた。
また主砲塔の位置も、扶桑?型や伊勢型では中央の砲塔が前後両方に向けられなかった戦訓を活かして、金剛型と同じく船体前後二基ずつの配置になっている。
その上列強(特に仮想敵国のアメリカ)各国海軍の主力戦艦より5kt以上速い高速戦艦として設計された。

だが二番艦「陸奥」の竣工直後にワシントン海軍軍縮条約が締結されたため八八艦隊計画は潰え、しばらくの間、本艦と陸奥は世界最大の戦艦として君臨することとなった。

1940年代に大和が竣工するまで連合艦隊旗艦をつとめ、数次の改装が行われながらもその姿は最も日本国民に親しまれたと言える*1

また、本艦の存在が抑止力となっていたことを表す、このようなエピソードも語られている。
――1930年代初頭、満州事変により中国大陸への進出を強める日本に危機感を抱いた米大統領が海軍長官に
「いま日本を攻めることはできないか?」
と諮問したところ、海軍長官は
「ダメです。日本にはナガトがいます」
と答えたという*2

しかし、大東亜戦争開戦時には既に旧式化しており、また、大艦巨砲主義から航空主兵主義へと戦闘の思想が移り変わっていたため、これと言った活躍はできなかった*3

日本海軍の戦艦で、大東亜戦争を最後まで生き抜いた唯一の艦だったが、終戦に伴いアメリカ軍に接収され、翌年7月にビキニ岩礁で行われた「クロスロード作戦」という二度にわたる原子爆弾実験の標的艦として使用された。
一度目の空中爆発実験「ABLE(エイブル)」では致命的損傷を受けず(爆心地方向の装甲表面が融解したのみ)、二度目の水中爆発実験「BAKER(ベーカー)」で殆どの艦船が一瞬で轟沈する中、長門はわずかに傾斜するも沈没する気配をみせず、抜群の難沈性を示した*5
そして5日後、誰にも看取られることなく忽然と海中に姿を消した。

現在、長門沈没地点はダイビングスポットとしてこの地の貴重な観光資源となっている。
沈没状態とはいえ、ビッグ7の中で一応形が残っているのは長門だけである。
現状は上下逆さまで沈没しており、艦橋部分は折れている。

スペックデータ

数値は新造時と1936年(昭和11年)に行われた最終改装後のものである。
-長門陸奥
基準排水量
(新造時/改装後)
32,720t/39,130t32,720t/39,050t
常備排水量33,800t
公試排水量43,580t43,400t
全長
(新造時/改装後)
215.80m/224.94m
全幅
(新造時/改装後)
28.96m/34.6m
吃水
(新造時/改装後)
9.08m/9.49m9.14m/9.46m
主缶
(新造時)
ロ号艦本式専焼缶×15基
ロ号艦本式混焼缶×6基
(改装後)ロ号艦本式専焼缶×10基(大型4基+小型6基)
主機艦本式オールギアードタービン×4基 4軸推進
軸馬力
(新造時/改装後)
80,000shp/82,000shp
燃料搭載量
(新造時)
重油3,400t、石炭1,600t
(改装後)重油5,600t、石炭57.8t
最大速力
(新造時/改装後)
26.5kt/24.35kt*7
航続距離
(新造時/改装後)
16ktで5,500海里/16ktで8,650海里
乗員
(新造時/改装後)
艦長以下1,333名/艦長以下1,368名
主砲四一式45口径40cm連装砲×4基四一式40.6cm連装砲×4基
副砲四一式50口径14冀荏砲×20基(新造時)
同単装砲×18基(改装後)
高角砲8cm単装高角砲×4門(新造時)
40口径12.7冢∩高角砲×4基(改装後)
機銃新造時:三年式機銃×3挺
改装後:7.7mm機銃×3挺、40mm連装機銃×2基、25mm連装機銃×10基
魚雷53cm水中・水上魚雷発射管×8本(新造時、改装後は撤去)
艦載機水偵×3機搭載(改装後)
装備カタパルト×1基(改装後)
装甲
(新造時)
水線:305mm
甲板:70+75mm
主砲前盾:305mm
主砲天蓋・副砲廓:152mm
水線:305mm
甲板:75+70mm
主砲前盾:305mm
主砲天蓋・副砲廓:152mm
(改装後)水線:305mm
甲板:70+127mm
主砲前盾:457mm
主砲天蓋:250mm
副砲廓:152mm
水線:305mm
甲板:75+127mm
主砲前盾:457mm
主砲天蓋:250mm
副砲廓:152mm
電探
レイテ沖海戦時)
21号電探×1基
22号電探×2基
13号電探×1基
-


略歴


長門
1917年 8月28日呉海軍工廠で起工。
1919年11月 9日進水
1920年11月15日竣工
1936年 2月26日〜二・二六事件に際し、叛乱部隊鎮圧のため東京湾に展開。
1941年12月 8日〜連合艦隊旗艦として、大東亜戦争に参加。
1942年 2月12日連合艦隊旗艦を「大和」に移し、第一艦隊に編入。
1942年 5月29日〜ミッドウェー海戦に参加。
1943年 8月23日トラック島に進出。
1944年 6月19日マリアナ沖海戦に参加。
1944年10月23日レイテ沖海戦に参加*8
1945年 6月 1日横須賀の特別警備艦に類別。*9
1945年 9月15日終戦のため除籍。米軍に引き渡される。
1946年 7月 1日ビキニ環礁にて原爆実験の標的艦として使用。
1946年 7月25日原爆実験の標的艦として再度使用。
1946年 7月29日沈没
陸奥
1918年 6月 1日横須賀海軍工廠で起工。
1920年 5月31日進水
1921年10月24日竣工
1927年 1月艦首形状を変更。
1934年 9月 5日改装工事開始。
1936年 9月30日改装工事完了。
1941年12月 8日〜「長門」と共に第一戦隊(連合艦隊直属)を組み、大東亜戦争に参加。
1942年 2月12日「長門」と共に第一艦隊へ編入。
1942年 5月29日〜ミッドウェー海戦に参加。交戦無し。
1942年 6月 6日帰投
1942年 8月17日トラック島に進出。
1943年 6月 8日広島湾沖柱島泊地停泊中に後部三番砲塔付近の火薬庫にて原因不明の爆発、沈没
1943年 9月 1日除籍
1948年艦の搭載物資のサルベージ作業開始。
1970年起重機船を使用したサルベージ作業開始。
艦首部分や武装の一部など、艦体の約70%が引き上げられた。



*1 この当時の子供のカルタにも「陸奥と長門は日本の誇り」とうたわれていた。
*2 ちなみにこの時、本艦は改装工事のためドック入りしており、艦隊にあったのは陸奥の方であったともいう。
*3 空母金剛型戦艦*4を含む機動部隊が各地に転戦したのに対し、本艦を含む6隻の戦艦からなる第一・第二戦隊は、戦争の中期まで瀬戸内海・柱島泊地やトラック環礁にとどまり続けたため「柱島艦隊」「トラック御殿」とも揶揄された。
*4 もと巡洋戦艦であったため、30ノットの速力を発揮でき、航空母艦にも追随可能であった。
*5 しかし、本艦と同条件、もしくはより爆心に近い海域にいながら被爆に耐え、沈没しなかった艦(米戦艦「ネバダ」、軽空母「インディペンデンス」、独重巡「プリンツ・オイゲン*6」など)もある。
*6 この時にはアメリカ海軍の艦籍に組み入れられ「雑役艦『プリンツ・ユージン』(USS Prinz Eugen IX-300)」と呼ばれていた。
*7 実際には魚雷回避のため同一方向へ27ノットで走る大和に追従出来たと言われる。
*8 このとき、アメリカの護衛空母群に向けて主砲を発射したのが、最初で最後の対艦戦闘になった。
*9 燃料の不足と、航空優勢を敵に掌握されていたため外洋に出ることができず、連合国軍地上部隊が本土へ上陸侵攻してきた際に浮き砲台として使われる予定だったという。

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