【大和】 †
日本国の古称・美称。もしくは現在の奈良県地方の旧国名(原義)。
明治以降、船舶の名称として幾度か用いられていた。
三等巡洋艦「大和」 †
葛城級三等巡洋艦の2番艦として、1887年に竣工した。
起工から竣工までに時間がかかったため、戦闘艦としての能力では最新鋭艦に比して一歩劣るものとなってしまった。
そのため、日清戦争では第二線に退き、日露戦争では戦闘艦として使用されず、後方支援の任務に回されていた。
1912年に二等海防艦に変更されたのち、1922年には更に測量艦に種別変更。
測量艦に変更されてからは日本近海の海底地形の測量に従事し、日本海中心部付近に海底丘陵を発見。艦名にちなみ「大和堆」と名付けられた。
1935年に海軍から除籍後、司法省(現在の法務省)へ移管されて神奈川県・浦賀港に繋留され、1945年まで少年刑務所の宿泊船として用いられた。
終戦直後の1945年9月、台風により鶴見川の河口付近で沈没着底、1950年に浮揚・解体された。
スペックデータ | |
常備排水量 | 1,480t |
全長 | 61.4m |
全幅 | 10.7m |
喫水 | 4.6m |
主缶 | 石炭専焼円缶×6基 |
主機 | 横置環動式2気筒レシプロ蒸気機関×1基 1軸推進 |
機関出力 | 1,600馬力 |
燃料 | 石炭:150t |
最大速力 | 13.0kt |
乗員 | 230名 |
兵装 | 17cm単装砲×1基 12cm単装砲×2基 7.5cm単装砲×1基 25mm4連装機銃×4基 11mm3連装機銃×2基 8cm砲×2門(測量艦時) |
超ド級戦艦「大和」 †
1930年代、日本で建造された史上最大の超ド級戦艦。
同型艦に「武蔵」「信濃」「(仮称)111号艦」があったが、戦艦として就役できたのはネームシップの「大和」と2番艦の「武蔵」だけであった*1。
本艦の開発・建造は、日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告した1934年末、「A-140」の仮称が与えられた新戦艦建造計画により開始された。
当初はディーゼルエンジンと蒸気タービンの併用が計画されていたが、大型艦用のディーゼル機関の開発が思うように進まず、タービン機関のみで建造が開始された。
日本の戦争計画として、数で押してくる米艦隊に対し、精鋭少数艦の戦力で撃滅するというものがあった。そのため、パナマ運河の通航可能が制約となるアメリカ戦艦の40センチ砲よりも長射程、高威力の46センチ砲を搭載した。
また、46センチ砲を撃った際の反動に耐えるだけの艦幅を確保、さらに重要区画は対応防御の思想に基づいて自らの主砲にも耐えられる防御能力を有している。
もっとも、艦全体にそのような装甲を施すと過大な重量になるため、英国の「ネルソン」級を可能な限り調査して徹底した集中防御策が施されている。
その軽量化の工夫は主砲塔にも見られ、主砲を日本戦艦初の三連装砲にしているのは軽量化のためといわれている。
この46センチ砲用に開発された九一式徹甲弾*2は、着水しても威力の減衰を最低限に収め、喫水線下に損害を与えることができた。
最高速度も27ノットと、当時の列強各国の新鋭戦艦と比べれば遅い部類に入るが、日本の戦艦の中では最速*3となっている。
結果的に、1941年の1番艦竣工と同時に大和型は基準排水量64,000tと世界最大の戦艦になり、その後、用兵思想が航空主兵主義に移り変わったため、今日にいたるまで大和型以上の戦艦は現れていない。
旗艦設備を備えていたこともあり、内装はかなり豪華であった。
水兵の寝床がハンモックでなくベッド、冷暖房にエレベーター完備であり、それに加えて(就役後すぐに「連合艦隊旗艦」とされたため)根拠地の柱島やトラック環礁からの出撃がほとんど無かったことから、将兵達に「大和ホテル」「武蔵御殿」などと揶揄されることもあった。
もっとも、冷房に関しては本来、火薬庫内の過熱による装薬の自然発火を防ぐ為のものであると同時に、主砲塔内や射撃指揮装置のあった発令所内の、文字通り灼熱地獄から兵員を守るためのものであり、ベッドに関しても、過酷な戦艦勤務での乗員の疲労回復を目指したものであって、司令部要員の為の装備というわけではなかった。
エレベーターについても、艦があまりにも大きすぎるが故に必要とされたのは言うまでもない。
また、その巨体ゆえに甲板掃除は過酷であり、「大和坂」「武蔵坂」と名付けられるほどであった。
大和型は予算を含めてその存在は極秘とされ、圧倒的な火力と防御力から大きな期待がかけられていたが、前述のように大艦巨砲主義から航空主兵主義に用兵思想が変わってしまったことと、連合艦隊旗艦として温存されたこともあって、実戦では特筆すべき活躍はできなかった。
1944年10月のレイテ沖海戦では、完成していた大和型の大和・武蔵が揃って参戦したが、敵艦載機の集中攻撃で武蔵が撃沈された。
残された大和は、1945年4月7日に実施された沖縄水上特攻作戦「菊水一号作戦」に参戦するが、航行途中、艦上戦闘機F6F「ヘルキャット」、艦上戦闘爆撃機F4U「コルセア」、艦上爆撃機SB2C「ヘルダイバー」、艦上攻撃機TBF/TBMアベンジャー、延べ377機で構成された艦載機部隊に襲撃され、左舷を中心に合計魚雷10本・爆弾5発が命中し爆発、炎上、14時23分に沈没した*4(坊ノ岬沖海戦?を参照)。
現在もその巨体を海底に横たえていることが海底調査で明らかになり、その際、数回の誘爆をおこして船体が二つに破断、バラバラに沈没したことも明らかになった。
姉妹艦の武蔵もまた、その後の海底調査で砲弾等の誘爆により、船体中央が木端微塵になっていた事が判明した。
なお、本艦は当時の情報秘匿面では稀な成功例であり、アメリカ軍は終戦までその詳細を掴んでおらず、有名なところでは主砲の口径を「16インチ(40.6cm)」とみなしていた。
(大和型の主砲は46センチ砲であることが知られているが、機密保持のため、主砲の正式名称は「九四式四〇センチ砲」となっていた。このことがアメリカ軍を混乱させた)
徹底した情報秘匿により、建造された呉軍港の地元民ですら「巨大な軍艦を作ってはいる」程度しか知らなかったという。
一般国民に至ってはその存在すら知らず、広く知られるようになるのは敗戦後のことであった。
そのため、当時国民の間で広く認知されていた海軍の戦艦は、連合艦隊旗艦も勤めた長門であった。
余談ではあるが、本艦は冷蔵庫を備えており、特に生鮮食料品は鮮度が良かったという。曰く「大和の飯は美味かった」とのこと。
現代における戦艦「大和」は、太平洋戦争中の日本軍の象徴的存在として零戦と共に広く認知されている。
また、本艦が建造された広島県呉市に開設された「呉市海事歴史科学館」の通称に「大和ミュージアム」の名前が使用されている。
スペックデータ | ||
大和 | 武蔵 | |
排水量 (公試/基準/満載) | 69,000t/64,000t/72,809t | -/65,000t/72,809t |
全長 | 263.0m | |
水線長 | 256.0m | |
全幅 | 38.9m | |
喫水 | 10.4m(公試) | |
主缶 | ロ号艦本式罐・重油焚×12基 | |
主機 | 艦本式オールギヤードタービン×4基 4軸推進 | |
出力 | 150,000hp | |
燃料搭載量 | 重油:6,400t | |
速力 | 27kt | |
航続距離 | 7,200海里/16kt | |
乗員定数 | 約2,500名(竣工時) 3,332名(最終時) | 約3,300名 |
武装(竣工時) | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×4基12門 八九式40口径12.7cm連装高角砲×6基 九六式25mm3連装機銃×8基 九三式13mm連装機銃×2基 | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×4基12門 40口径12.7cm連装高角砲×6基12門 25mm3連装機銃×12基36門 13mm連装機銃×2基4門 |
武装(最終時) | 45口径46cm3連装砲×3基 60口径15.5cm3連装砲×2基 40口径12.7cm連装高角砲×12基 25mm3連装機銃×52基 25mm単装機銃×6基 13mm連装機銃×2基 | 45口径46cm3連装砲×3基9門 三年式60口径15.5cm3連装砲×2基6門 40口径12.7cm連装高角砲×6基12門 25mm3連装機銃×35基105門 25mm単装機銃×25基25門 13mm連装機銃×2基4門 28連装12cm噴進砲×2基56門 |
装甲 | 舷側:410mm 甲板:200〜230mm 主砲防盾:650mm 艦橋:500mm | 舷側:410mm 甲板:200mm 主砲防盾:600mm |
艦載機 | 零式水上偵察機?・零式水上観測機?ほか×7機 | |
装備 | カタパルト×2基 | |
電探 | 21号電探(大和は1942年7月に、武蔵は新造時から装備) 22号電探(1943年7月に搭載) 13号電探×2基(後檣部、1944年初頭に設置) | |
照準装置 | 15.5m測距儀×4基(艦橋頂上、各主砲塔) 10m測距儀×1基(後部艦橋(予備)) 九八式方位盤照準装置改一(後部艦橋) 九八式射撃盤*5 |
同型艦 | ||||||
艦名 | 主造船所 | 起工 | 進水 | 就役 | 除籍 | 備考 |
大和 | 呉海軍工廠 | 1937.11.4 | 1940.8.8 | 1941.12.16 | 1945.8.31 | 1945.4.7戦没 |
武蔵 | 三菱・長崎 | 1938.3.29 | 1940.11.1 | 1942.8.5 | 1945.8.31 | 1944.10.24戦没 |
信濃 | 横須賀海軍工廠 | - | 航空母艦として就役 | |||
(仮称)111号艦 | 呉海軍工廠 | - | 1942.3. 建造中止・解体 |
略歴 | |
大和 | |
1937年11月4日 | 呉工廠にて起工。 |
1940年8月8日 | 進水 |
1941年12月16日 | 竣工 |
1942年2月12日 | 太平洋戦線へ投入、連合艦隊旗艦となる。 |
1942年5月29日〜 | ミッドウェイ作戦に参加。 |
1943年2月11日 | 連合艦隊旗艦を「武蔵」に移す。 |
1944年6月15日〜 | マリアナ沖海戦に参加。 |
1944年10月22日〜 | レイテ沖海戦に参加。 |
1945年4月6日〜 | 沖縄特攻作戦に参加。 |
1945年4月7日 | 九州南西沖にて米軍機の攻撃を受け沈没 |
1945年8月31日 | 除籍 |
武蔵 | |
1938年3月29日 | 三菱長崎造船所にて起工。 |
1940年11月1日 | 進水 |
1942年8月5日 | 竣工 |
1943年2月12日 | 連合艦隊旗艦となり、太平洋戦争に参加。 |
1944年3月31日 | 連合艦隊旗艦任務を解かれる*6。 |
1944年6月15日〜 | マリアナ沖海戦に参加。 |
1944年10月22日〜 | レイテ沖海戦に参加。 |
1944年10月24日 | シブヤン海において、米軍機の攻撃を受け沈没 |
1945年8月31日 | 除籍 |
超伝導実験船「ヤマト1」 †
1980年代、日本造船振興財団*7により開発・建造され、1992年に就役した実験船。
船名は上述のわが国の古称や超ド級戦艦(あるいはそれをモチーフにしたSFアニメ)などに由来する。
計画当時、日本の海運・造船業界は長期にわたる不況に陥っており、民間で運用される船舶及びその関連機器も外国からの輸入、もしくはライセンス生産されたものが多くを占めていた。
そうした中、国内造船業の再興を期して計画されたのが本船であった。
本船は、従来の船舶の推進機構であったスクリューを用いず、超伝導電磁石によって強力な磁場を発生させ、磁場中の海水に電流を流してローレンツ力により後方へ噴射する「ウォータージェット推進」を採用している。
これにより、「ほぼ無音での航行が可能」「不快な振動がなく環境適性が高い」「船体が浸水しにくくなる」などのメリットが見込まれた。
1992年6月に進水後、兵庫県・神戸港にて超伝導電磁石を用いた海上航行実験を行い、一定の成果を収めた。
しかし、超伝導推進を実際の船舶に利用することには解決の難しい問題が多々あり*8、2023年現在においても実用化の目処は立っていない。
船舶の超伝導推進そのものは、これより以前の1976年、神戸商船大学*9の佐治吉郎教授が長さ1mの模型船で実験に成功している。
一連の実験終了後、本船は廃船とされ、2基あった推進装置のうち1基は東京・お台場の「船の科学館」で展示保存されている。
なお、船体と超伝導電磁石は神戸市の神戸海洋博物館で展示保存されていたが、2016年に解体・撤去された。
スペックデータ | |
船籍 | 日本 |
母港 | 神戸港 |
主造船所 | 三菱造船神戸 |
着工 | 1989. |
進水 | 1992.6.16 |
除籍 | N/A |
船殻材質 | アルミニウム合金 |
総トン数 | 185t |
全長 | 30.0m |
全幅 | 30.8m |
型幅 | 10.39m |
深さ | 2.50m |
推進方式 | 超伝導推進 6連環内部磁場型超伝導電磁石×2基 |
最大速力 | 8ノット |
乗員 | 10名(運航要員3名、その他7名まで乗船可) |
備考 | 推進装置のうち1基は船の科学館(東京)で保存。 |
*1 「信濃」は建造途中で空母に艦種変更されて就役。111号艦は起工後まもなく、船台を組んだところで建造中止が決定され、スクラップとして処分された。
*2 この砲弾は、距離25,000〜30,000メートル程度から敵戦艦の甲板装甲を貫通することを目的とし、所謂アウトレンジは想定していない。
*3 当初巡洋戦艦として建造された金剛型は除く。
*4 弾薬庫の誘爆または、機関室の水蒸気爆発によるものと考えられている。
*5 一種の機械式アナログコンピュータ。比叡に先行搭載されていた。
*6 将旗は軽巡洋艦「大淀」に移された。
*7 現:シップ・アンド・オーシャン財団。
*8 本船では超伝導コイルの冷却に液化ヘリウムを使用しており、装置全体が大掛かりになっていた。
また、強力な磁力線が船内の乗客・乗員・積荷に与える影響も無視できない。
*9 現:神戸大学海事科学部。